目次

《日蓮大聖人御教示》

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年収なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり

(聖人御難事・御書一三九六㌻)

戒壇の大御本尊は大聖人の御当体

御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云

(御義口伝・御書一七七三㌻)

大石寺は本門戒壇建立の霊地

戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり

(三大秘法禀承事・御書一五九五㌻)

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月  日 日蓮花押
血脈の次第 日蓮日興

(日蓮一期弘法付嘱書・御書一六七五㌻)

三箇の秘法建立の勝地は富土山本門寺の本堂なり

(百六箇抄・御書一六九九㌻)

日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり

(百六箇抄・御書一七〇二㌻)

戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな

善に付け悪につけ法華経をすっるは地獄の業なるべし

(開目抄・御書五七二㌻)

御本尊の大事は唯授一人の血脈

此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり

(本因妙抄・御書一六八四㌻)

直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿開梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり

(百六箇抄・御書一七〇二㌻)

《第二祖日興上人御指南》

本門戒壇の大御本尊

日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし

(日興跡条々事・御書一八八三㌻)

大石寺は本門戒壇建立の霊地

富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す。爰に知んぬ、先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す、弘通此の地に在るなり

(五人所破抄・御書一八七八㌻)

《第十四世日主上人御指南》

戒壇の大御本尊は付嘱の御法体

大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ則ち別付嘱唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇の御本尊、興師より正応の御本尊法体御付嘱なり

(日興跡條々事示書・歴全一―四五九㌻)

《第二十六世日寛上人御指南》

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終わり、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり(中略)天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕わす、寧ろ不思議に非ずや

(観心本尊抄文段・文段一九六㌻)

弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり

(観心本尊抄文段・文段一九七㌻)

宗祖の弘法も亦三十年なり。三十二歳より六十一歳に至る故なり。而して復宗旨建立已後第二十七年に当たって己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕わしたまえり

(観心本尊抄文段・文段二一二㌻)

戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊

本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり

(観心本尊抄文段・文段二四三㌻)

戒壇の大御本尊は広宣流布の根源

文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり(中略)此の本尊は広布の根源なり

(撰時抄愚記・文段二九〇㌻)

富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや

(文底秘沈抄・六巻抄六八㌻)

戒壇の大御本尊は根源の御本尊

広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も但是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり

(法華取要抄文段・文段五四三㌻)

戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり

(報恩抄文段・文段四六九㌻)

三大秘法とは戒壇の大御本尊

三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり

(依義判文抄・六巻抄八二㌻)

一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊在す上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向い戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則んば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝し給へ (中略)其の三大秘法の住する処こそ何の国にてもあれ霊山会場寂光の浄刹なるべし

(寿量演説抄・歴全四―一四五㌻)

されば諸天も石劫打やめて嫡々付法の三大秘法のたたせ給ふ大いしの寺を守らせ給へ

(日寛上人伝九二㌻)

大石寺は本門戒壇の霊地

当山は本門戒壇の霊地なり(中略)正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり

(法華取要抄文段・文段五四三㌻)

本門戒壇の本尊は正応元年冬の比、彼の身延を去って此の富山に移る。蓋し是れ意有らんか。凡智の能く測る所に非ず。既に是れ富山は本尊所住の処なり。豈此の処に戒壇を起てざらんや

(法華取要抄文段・文段五四三㌻)

問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すとせんや。答う、応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て本門の戒壇之れを建立すべきなり

(文底秘沈抄・六巻抄六一㌻)

教主釈尊の一大事の秘法とは結要付嘱の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり

(文底秘沈抄・六巻抄六四㌻)

百六箇に云わく「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべし乃至何の在処たりとも多宝富士山本門寺と号すべし」云云。嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり。故に御遺状に云わく「日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の大本尊は、日目に之れを授与す。本門寺に掛け奉るべし」云云。故に百六箇の文意は本門戒壇の本尊所在の処を本門寺と号すべし

(文底秘沈抄・六巻抄六七㌻)

今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らがらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり

(文底秘沈抄・六巻抄六六㌻)

大御本尊を離れれば似せ薬

「日興が身に宛て賜はる所の弘安二年の大本尊は、日目に之を授与す。本門寺に掛け奉るべし」云云。今四百余年に至る。他流は皆是れ似せ薬なるべし

(妙法曼陀羅供養抄記・文段七〇三㌻)

日蓮正宗の三宝

南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲、南無日蓮大聖人師。南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし

(当家三衣抄・六巻抄二二五㌻)

《第五十六世日應上人御指南》

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

抑も戒壇本尊の造立は宗祖出世の本懐にして一期弘通の大事なり

(弁惑観心抄一九三㌻)

御本尊書写の権能は御法主上人にある

此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ

(弁惑観心抄二一九㌻)

《第五十九世日亨上人御指南》

三大秘法とは戒壇の大御本尊

一期の弘法即三大秘法、三秘の中心即本門戒壇の大御本尊である

(大白蓮華・昭和二八年九月号二六㌻)

《第六十世日開上人御指南》

三大秘法とは戒壇の大御本尊

吾が総本山に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖一期の大事、本門三大秘法の随一にて在すなり。この御本尊に背き奉るところの他宗他門の仮令日蓮宗と称するものも、凡て謗法の徒にして、釈尊出世の本懐に背き、宗祖違背の大罪人にして、主師親の大道を忘れ、久遠元初の本因の大法、因果の道を忘れたる、これ仏法内の外道にほかならず、況んやその余をやであります

(日開上人全集二五三㌻)

《第六十四世日昇上人御指南》

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

久遠本仏たる宗祖日蓮大聖人は南無妙法蓮華経をお唱へ出された年から二十七年即ち弘安二年に出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を一切衆生に総与遊ばされたのであります。日昇不肖ながら先師の跡を継いで此の大御本尊を守護し奉り広宣流布の時を待って居ります

(大白蓮華・昭和二七年六月号四㌻)

戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊

夫れ戒壇の本尊は宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之れを建立して、血脈付法の二祖日興上人に身に当て給るところなり

(大日蓮・昭和三〇年一二月号一四㌻)

三大秘法とは戒壇の大御本尊

日蓮大聖人様は弘安二年十月十二日に本門の本尊を建立せられ、この本尊を一器の水を一器に移すように日蓮、日興、日目と付属せられ不肖日昇までに伝えられ、丑寅の勤行怠慢なく今日までに伝えられたのであります。本門戒壇の本尊こそ富士大石寺にまします三大秘法の御本尊であります

(聖教新聞・昭和二七年四月一〇日付)

今此の三大秘法はこの戒定慧の三つで、まことに最大事の要法でありますから秘法と申すのであります。扨て又この三大秘法は開きますとこの三つになるのでありますが、此れをつづめますると本門の御本尊即ち大曼荼羅の一つに帰するのであります(中略)大聖人の御化導を拝し奉ると、三大秘法と申しまするにその究竟の眼目は戒壇の大御本尊に帰着致すのでありまして即ち皆様が今日篤くと拝せられました当山に護持し奉る戒壇の大御本尊に帰するのであります

(大日蓮・昭和二九年五月号三㌻)

戒壇の大御本尊の内証を御書写

戒壇の大御本尊の御内証を、帯し奉って不肖日昇六十四世の法主として、御本尊様に信仰をそめておしたため申しあげている御本尊でございまする

(聖教新聞・昭和三〇年一二月一八日付)

《第六十五世日淳上人御指南》

戒壇の大御本尊は大聖人の御当体

南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります(中略)妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具はり玉ふのであります。その仏は十方法界に唯御一人在ますだけであります(淳全九八二㌻)

戒壇の大御本尊は根本の御本尊

大聖人の御施化に於ては此の戒壇の大御本尊が究竟であらせられるのでありまして一切の御法門も御教示も皆此に帰趣せしめられるためであります。しかして御在世に於て有縁の信者へ御本尊を御授与遊ばされましたが、皆此の御本尊中より出生せしめられしところでありまして、その根源は此にあらせられるのであります。御滅後に於てはなほ更然りであります(中略)即ち一切衆生の帰命をなすべき御本尊であります。現在此の御本尊は本宗総本山大石寺に深く蔵し奉るところであります

(淳全四九三頁)

三大秘法とは戒壇の大御本尊

三大秘法の実体こそ誠にこの本門戒壇の御本尊であります(中略)我が日蓮正宗に於いては、日蓮大聖人様の御正意を承継あそばす御開山日興上人の御高徳によりまして幸いにも皆様方には三大秘法の実体たる本門戒壇之大御本尊様を信受し奉ることが出来るので御ざいます

(淳全二一二㌻)

三大秘法をつづめると御本尊の一大秘法におさまるのであります。而して此の御本尊こそ弘安二年十月建立し給ふ大曼荼羅でありまして、此れを戒壇の大御本尊と申上げ大聖人より付法二祖日興上人に御譲り遊ばされました。そして現在日蓮正宗富士山大石寺に護持せられる大御本尊であります

(淳全四〇〇㌻)

日蓮大聖人の御施化に序正流通 従浅至深の次第があらせられるも、究竟するところ三大秘法の御建立であらせられることは、今日に於て何人も承知するところであって、若し三大秘法といへば本門本尊の一大秘法に帰するは理の当然である。若し然りとすれば吾が総本山大石寺に安置し奉る戒壇の大御本尊が大聖人の施化の究竟と拝さなければならない。若し此旨を失へば御一代の御示教は全く泡沫になって了ふのである

(淳金八二六㌻)

《第六十六世日達上人御指南》

戒壇の大御本尊は大聖人の御当体

本宗の教義は、宗門の信仰の対象は、すなわち弘安二年、大聖人様のご本懐の戒壇の大御本尊様であります。そして、その大聖人様はこの戒壇の大御本尊様をご建立あそばされ、すなわち大聖人様即戒壇の大御本尊様であります。

(達全ニー六-二七三㌻)

戒壇の大御本尊は根本の御本尊

戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく、人を救うところの力もないのであります。

(達全一―一―三三九㌻)

三大秘法とは戒壇の大御本尊

日蓮正宗の宗旨の三秘は本門事の戒壇の御本尊の一大秘法に納まるのである。

(達全ニ―七―五一二㌻)

戒壇の大御本尊の内証を御書写

戒壇の御本尊の、又、写しが、各末寺の御本尊であり(中略)また各家の御本尊である。だからそこに戒壇の御本尊の、大聖人様の血脈が、正宗を信心する皆様の中に皆伝わっておるのでございます。その根本たる戒壇の御本尊を忘れてしまったならば、いかに信心しても、大聖人様の血脈は通じてこない。

(達全一―二―二五六㌻)

《牧口初代会長指導》

戒壇の大御本尊を信じよ

御本尊の中、総与の御本尊と称して、大石寺に伝へられる大御本尊を信じ奉る者が正しい信者である

(牧口常三郎全集一〇 ― 一五一㌻)

大善生活かいかにして吾々の如きものに百発百中の法則として実証されるに到ったか。それには、仏教の極意たる妙法の日蓮正宗大石寺にのみ正しく伝はる唯一の秘法があることを知らねばならぬ

(牧口常三郎全集一〇 ― 一四二㌻)

釈尊が「五濁悪世」と予言した末法現代の重病は大火であり、三大秘法の大御本尊以外の小水では、消火はおろか、ますます火勢を強大にするのみである

(牧口常三郎箴言集二〇六㌻)

《戸田二代会長指導》

本門戒壇の大御本尊

弘安二年十月十二日の御本尊様が、究極中の究極の御本尊様なのです。大御本尊を拝すると、花押の下に「本門戒壇也」と、チャンとおしたためになっている。その次に、願主弥四郎国重とありますが、本門戒壇の願主ですけれども、この御本尊は、本門戒壇だ、ということが、キチンとおしたためになっている。争う余地がない。絶対にない

(大白蓮華・昭和三四年三月号七㌻)

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

僅か小勢百数十人の僧侶が愚僧悪僧邪僧充満の悪世によく耐えるもので、大聖人の「御出世の御本懐」たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護し奉って、七百年間、塵もつけず敵にも渡さず皆々一同代々不惜身命の心掛けで一瞬も身に心に身心一つに御本尊を離れずに今日に至ったのである(中略)かくも法体を守護し、且つ化儀連綿たる功績こそ称えねばならぬことである

(大白蓮華・昭和二六年六月号巻頭言)

余は二十七年なりとは弘安二年十月十二日の総与の御本尊の出現をさしての御仰せであって、この御言葉によって本仏出世の御本懐は此の御本尊の出現にある。世の不幸を救ふ一大秘法は此の本尊にありと信じなくてはならぬ

(大白蓮華・昭和二六年六月号二㌻)

弘安二年十月十二日の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟本懐の中の本懐で真に尊き事と拝さねばなるまい。この御本尊こそこれ三大秘法の随一であり、一閻浮提総与の御本尊である

(大白蓮華・昭和二八年二月号三㌻)

戒壇の大御本尊は大聖人の御当体

御本仏は、生きていらっしゃるときには、日蓮大聖人、亡くなられては本門戒壇の大御本尊と仰せられ、その仏の御名前と年月はちがいますが、同じくわれわれを化導して下ざるのである

(日蓮正宗方便品寿量品講義二〇六㌻)

日蓮大聖人はいつも、この娑婆世界に住んでおられる。現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人の御当体とは気がつかないでいるのである

(日蓮正宗方便品寿量品講義二一三㌻)

戒壇の大御本尊は広宣流布の根源

学会は今大聖人の命うけて弘安二年十月十二日に御顕しになられた一閻浮提総与の御本尊を日本に流布せんことを誓う

(聖教新聞・昭和二六年一一月一〇日付)

「明鏡」とは、弘安二年十月十二日に宗祖日蓮大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊であり、「向かって」とは、われわれがこの大御本尊を唯一最尊の大御本尊なりと信じたてまつることである

(戸田城聖全集七― 一二五㌻)

戒壇の大御本尊は根本の御本尊

御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、創価学会を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです

(戸田城聖先生質問会集二一㌻)

われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです

(戸田城聖全集四―三四九㌻)

「大白法」とは何か。それは本門の三大秘法であり、就中、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、一切の教典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根元である

(大白蓮華・昭和二四年八月号二㌻)

大御本尊に向って、御本山のしきたり通りの化儀によって、題目を口唱する、その時こそ、口に心に身に御本尊を受持したことになるのである

(大白蓮華・昭和三二年六月号ー㌻)

この本尊論がまことに大事なところなんです。これが狂ってくると、一切が狂ってくる。ただ、富士大石寺の文底深秘の大御本尊、これより他にはない。これが根本なのですよ

(大白蓮華・昭和三四年四月号九㌻)

大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊

日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである

(戸田城聖全集三―八三㌻)

日蓮大聖人おおせの、もっとも根本は、弘安二年十月十二日御出現の大御本尊であります

(日蓮正宗方便品寿量品講義八六㌻)

大石寺は本門戒壇建立の霊地

本門戒壇の建立されるべき地を大日蓮華山という

(戸田城聖全集七―六九㌻)

創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体

日蓮大聖人様から六百余年法灯連綿と正しく続いた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無けつな仏法が正宗なのである。この仏法こそ私達を真に幸福に導いてくれる宗教であることを私達は日夜身をもって体験してゐるのである(中略)私達は無智な人々を導びく車屋である。迷ってゐる人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くのが学会の唯一の使命である。宝の山に入って宝をとるかとらないかはその人の信心の結果であって、たゞ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが我々学会の尊い使命なのである

(大白蓮華・昭和二四年一二月号一㌻)

日蓮正宗の教義を弘めよ

日蓮大聖人以来の正しい歴史と教義を、世に弘めるべく大いに努力しなければならない

(戸田城聖全集六-四〇四㌻)

戒壇の大御本尊を信じよ

なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている

(戸田城聖全集三―四九〇㌻)

絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない

(戸田城聖全集四-七八㌻)

私の願いとするところは、この弘安二年の十月十二日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです

(戸田城聖全集四―三五〇㌻)

世の為人の為に富士大石寺にいます「大御本尊」を一人にでも多く授けたいと努力するのが即ち折伏と言ふのである

(大白蓮華・昭和二六年六月号二㌻)

当門に於いて観心とは受持即観心と云って弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大漫荼羅を余行をまじえずひたぶるに信心し奉る事である

(大白蓮薬方昭和二八年一二月号巻頭言)

現代に於ては時刻相応の教と云うならば、富士大石寺にいます一閻浮提総与の御本尊を信ずる事である。大聖人の御命たる大曼荼羅を信ずる事でありその大曼荼羅中の極説中の最極説たる弘安二年十月十二日御出現の総与の御本尊こそ真の民衆救済の御本体であらせられる

(大白蓮華・昭和二九年七月号巻頭㌻)

大聖人は実践方法として、弘安二年十月十二日の大御本尊を中心として、これに南無することによって、一切の悪い宿業が消えて、よき宿業が生まれるのであると結論されたのである

(大白蓮華・昭和三二年一〇月号一㌻)

大聖人様は三十二の御年に、南無妙法蓮華経と、清澄山でお唱えあそばして、二十七年で、今のお山の大御本尊様を、御建立なさった。それが十月十二日です。その大御本尊様を、われわれは拝んでいるんです(中略)『余は二十七年なり』とおっしゃって、おしたための御本尊様こそ今の奉安殿の御本尊様であらせられるのですぞ。御立派なものですよ。あの大御本尊様を拝んだら、生命が延びるとまで、いわれているのです。立派な大御本尊です。そりゃ、拝まにゃわからんぜ。拝んでもわからんかも知らん。聞いてもわがらんかも知らん。ただ無二の信心で拝すべきです

(大白蓮華・昭和三二年一二月号三㌻)

戒壇の大御本尊を信じない者は謗法

本門戒壇の大御本尊を信じ奉らない者は、すべて謗法として禁じなければならない

(戸田城聖全集五―一五六㌻)

御本尊書写の権能は御法主上人にある

大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ

(大白蓮華・昭和三四年七月号九㌻)

《池田大作指導》

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります

(会長講演集三-一〇三㌻)

戒壇の大御本尊は大聖人の御当体

日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである

(広布と人生を語る三―二四六㌻)

戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊

十月ときくと、多宝富士大日蓮華山にまします、大仏法のありがたさを、一人、感ずるものである。この弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊様のみが、全世界の人々が、信伏随順せねばならぬ宇宙の大法則なのである

(大白蓮華・昭和三五年一〇月号七㌻)

末法のわれら衆生の信奉すべき御本尊は、日蓮大聖人であり、また大聖人の御生命を、一幅の大曼荼羅として認められた、弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊以外に絶対にないのである

(御義口伝講義下二三八㌻)

戒壇の大御本尊は広宣流布の根源

大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和のカギはこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない

(大白蓮華・昭和四五年一一月号一〇㌻)

日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである

(立正安国論講義七七一㌻)

戒壇の大御本尊は根本の御本尊

日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくだざるのである

(広布と人生を語る一―一一二㌻)

三大秘法とは戒壇の大御本尊

どんなニセ本尊に向かっても南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。三大秘法中の本門の題目とは、大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うることである

(日蓮大聖人御書十大部講義五―三六二㌻)

大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊

大聖人様はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります

(会長講演集ニ―五六㌻)

大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかの極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります

(会長講演集九―二一八㌻)

創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体

わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申しあげ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます

(大白蓮華・昭和三五年六月号七㌻)

もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります

(聖教新聞・昭和五五年四月二日付)

大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない

(聖教新聞・平成五年九月一九日付)

日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである

(広布と人生を語る一―一三一㌻)

社会はますます複雑になっていくであろう。その動向に対処するため、学会も多様性を要請される場合がある。しかし、ただ、次の点だけは不動の路線であることを忘れてはならない。それは、
一、三大秘法の大御本尊がいっさいの根本であると拝していくことだ。
二、御法主上人の御もとに日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことだ(中略)
この大原則を離れて、大聖人の仏法はありえない

(広布と人生を語る三―二七一㌻)

戒壇の大御本尊を信じよ

唯々、弘安二年十月十二日の大御本尊に題目を唱えきって行く事のみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである

(大白蓮華・昭和二九年六月号二二㌻)

私たちは、いま幸福生活への根本理念を知り、かつ具体的方法を体得しているのである。その原理・方法とは何か。申すまでもなく、日蓮大聖人の出世の本懐たる弘安二年十月十二日の三大秘法の大御本尊様に唱題することにつきるのである(中略)指導とは、唯一の目的である大御本尊様を、しっかり拝ませることを、いかに実行せしめるかにある

(大白蓮華・昭和三六年一二月号八㌻)

信心とは、本門戒壇の大御本尊を絶対と信じたてまつり、いかかる脅し、いかなる迫害、いかなる誘惑があったとしても、絶対、不退にして屈せず、ひたぶるに御本尊を受持したてまつり、広宣流布に邁進していくことである

(広布と人生を語る一―一三二㌻)

信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである

(広布と人生を語る三―九八㌻)

戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな

一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐに進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。「善に付け悪に付け法華経をすつるは地獄の業なるべし」(開目抄)です

(会長講演集九―三二三㌻)

末法今時においては、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とおおせられた、正しき日蓮正宗の大御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである

(日蓮大聖人御書十大部講義五―二七四㌻)

「諸難ありとも疑う心なくば」とは、いかなる中傷非難にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない、捨ててはならない、との仰せである。「無疑曰信」の大信心に厳然とたつべきである

(講座教学研究ニ―一二㌻)

大御本尊を拝まなければ、もう学会員ではないのです

(会長講演集一〇―一九二㌻)

戒壇の大御本尊を信じない者は謗法

大御本尊様を受持し、信心していくならば、かならず仏になる、大御本尊様をもたないで、大御本尊様をもったものを誹謗すれば、かならず地獄におちる

(会長講演集八―一六七㌻)

日蓮大聖人の御心とは何か(中略)出世の本懐として顕わされた本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟の御心なのである。この大御本尊を否定して、いかに大聖人の御書を拝読しても、法華経を賛嘆しても、全部、大聖人の御心に背いている仏敵と断ずることができるのである

(御義口伝講義上九四㌻)

御本尊書写の権能は御法主上人にある

日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい

(広布と人生を語る三―二五六㌻)

《折伏経典》

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐

日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあることに間違いなく、日蓮正宗はこれを本尊として日蓮大聖人のご遺志を継ぎ、一切民衆を救わんとするものである。されば、これは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である

(改訂二三版二一八㌻)

戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊

根本の本尊たる一閻浮提総与の大御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱題することによって、末法の一切衆生は救われるのである。この一閻浮提総与の大御本尊は弘安二年十月十二日にあらわされ、この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は根本的に幸福にはなれないのである

(改訂二三版七〇㌻)

三大秘法とは戒壇の大御本尊

三大秘法とは、本門の本尊と、本門の題目と、本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人のお教えである

(改訂二三版三二九㌻)

戒壇の大御本尊を信じよ

弘安二年の本門戒壇の大御本尊に帰依したてまつる以外に、成仏得道の道は絶対にないのである

(改訂二三版一二四㌻)

戸田先生は学会再建いらい十四年間、先代会長牧口先生の御意志を受けつがれ、ひたすら大御本尊様への御幸公に身を捧げ、御本山をお守りする真心一筋に貫かれた。その粉骨砕身のお働きは、かねがね日昇上人様にも、日淳上人様にも、「戸田は決して一宗一派を開く者ではございません。ただ生命の続く限り御本山へ忠誠一途につくすのみであります」と言上しておられた通りの御振舞であられた(中略)すなわち日蓮正宗の良き檀那、大信者として、偉大な御一生を貫ぬかれたのであり、「お前たちもこのようにせよ」と示されたのである

(校訂再版三六七㌻)

戒壇の大御本尊を信じない者は謗法

いま末法にはいって日蓮大聖人のご本懐は弘安二年であるということは、一閻浮提総与の大御本尊の建立をさしているのである。この御本尊に対したてまつって唱えるお題目以外の題目は、すべて、仏説に反することは明らかである

(改訂二三版三一一㌻)

この大御本尊に直結したお曼荼羅を拝む信仰でなければ、絶対に功徳もなく、ましてや、生命の本質をつかんで仏の境涯に立ち、永遠の生命を感得することなどは、とうてい望めないことである

(改訂二三版三一三㌻)

電灯にたとえて考えてみると(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である

(改訂二三版三一三㌻)

大御本尊は、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事)とおおせられているごとく、大聖人ご自体として拝すべきであるから、富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである

(改訂二三版三一四㌻)

日蓮正宗の御本尊以外は天魔外道

日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道の本尊である。姿は仏に似せようと、神を表わそうと、みな内証においては天魔外道である

(改訂二三版三一㌻)

御本尊書写の権能は御法主上人にある

信仰の対象としていっさいをささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下おひとりが、おしたためあそばされるものであり、われら信者がうんぬんすべきことではないのである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである。これは不相伝なるがゆえに仏法の深義に迷うのであって、不相伝家はみな本尊に迷うということができる

(改訂二三版三一五㌻)