1 宗教の必要性を認めない

宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人の中には、感覚的に信仰を嫌(きら)う人もあれば、今までまったく無関心に生きてきたことによって、その必要性に気づかない人もあることでしょう。

しかし、ほとんどの人々は自分なりの信念を持って、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているようです。

たしかに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、社会的な地位を得(う)るということは、尊(とうと)い一生の仕事であり、これとても、並(なみ)たいていの努力でできるものではありません。

真実の宗教は、人間の生命を説き明かし、人生に指針(ししん)を与えるもっとも勝れた教えですから、これを信ずることは仏の正しい教えによって、心の中に秘められた願いを成就(じょうじゅ)し、私たちの持つ信念を、より崇高(すうこう)な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育(はぐ)くむことになるのです。

たとえば、山の中の小さな谷川をわたるのには、航海(こうかい)術(じゅつ)を学ぶ必要はないでしょう。けれども、太平洋などの大海原(おおうなばら)を渡るには、正しい航路を知り、進路を定(さだ)め、航海するための知識や技術が、どうしても必要なのです。

私たちの人生にとっても、一生という長い航海には、仏の正しい教えによって航路を正(ただ)し、自分を見きわめ、真実の幸せな人生という目標に到達(とうたつ)するための知識や訓練(くんれん)ともいうべき、正しい信仰と修行が必要なのです。

真実の宗教を持(も)たず、正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤(らしんばん)も持たずに大海原に乗り出した船のように、人生をさまよわなければなりません。

釈尊は涅槃(ねはん)経(ぎょう)というお経の中で、信仰のない人のことを、

「主(しゅ)無く、親(おや)無く、救(く)無く、護(ご)無く、趣(しゅ)無く、貧(びん)窮(ぐ)飢(き)困(こん)ならん」

と説いています。

すなわち、正しい宗教を持たない人は、仏という人生における根本の師を知らず、もっとも慈愛の深い親を持たず、したがって、仏の救済(きゅうさい)もなく、護られることもなく、何を目的として生きるのかということを知らず、正法の財宝(功徳(くどく))に恵(めぐ)まれない、心の貧(まず)しい人だというのです。

さらに長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくる時もありましょう。少なくとも病苦(びょうく)・老苦(ろうく)・死苦(しく)などは、誰もが必ず直面しなければならないことなのです。

実際に自分がこうした苦悩(くのう)に遭遇(そうぐう)した時のことを想像(そうぞう)してみて下さい。はたして本当に自分の信念と努力で、このような悩みや苦しみを乗り越えることができるのでしょうか。少なくとも自分一人の力で、その苦しみのどん底からはい上がり、我が身の不幸を真実の幸せな人生へと転換(てんかん)させることは容易(ようい)なことではありません。

まして一切の苦悩に打ち勝って、安穏(あんのん)な、しかも行きづまりのない自在の境涯(きょうがい)を開拓(かいたく)して生きるなどということは、できるものではありません。

ここに、正しい信仰によっていかなる障(しょう)魔(ま)にも負けない不屈(ふくつ)の闘志(とうし)と、仕事や家庭など人生におけるすべての苦難(くなん)に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。

2 現実に神や仏がいるとは思わない

初(はじ)めに、神についていいますと、キリスト教やイスラム教で立てる天地(てんち)創造(そうぞう)の神ゴッドやアラーは、予言者と称(しょう)されるキリストやマホメットが経典(きょうてん)に説示(せつじ)しただけのことで、現実にこの地上に姿(すがた)を現わしたことはありません。

天理(てんり)教(きょう)の天理(てんり)王(おうの)命(みこと)や金光(こんこう)教(きょう)の天地(てんち)金乃神(かねのかみ)なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現われたことはありません。

また神社の中には、天満宮(てんまんぐう)や明治神宮などのように菅原道真(すがわらのみちざね)とか明治天皇などの歴史上の人物を祭(まつ)っているところもありますが、これらは偉人(いじん)を敬慕(けいぼ)する感情や時の政治的配慮(はいりょ)などによって、人間を神にまで祭(まつ)りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。

本来、神とは原始的時代の自然崇拝(すうはい)の産物(さんぶつ)であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用(はたらき)には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端(たん)を発しています。

したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝(らいはい)の対象(たいしょう)となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育(はぐ)くむことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮(く)らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味(ほうみ)といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光(いこう)と法の力を得て善神(ぜんじん)として人間を守り、社会を護(まも)る力を発揮(はっき)すると説いています。

次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩(ぼさつ)たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近(みぢか)なところでは、念仏(ねんぶつ)宗(しゅう)の阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)や真言(しんごん)宗(しゅう)の大日(だいにち)如来(にょらい)なども実在したことのない仏です。

ではなぜ架空(かくう)ともいえる仏や菩薩が経典に説かれたのかというと、インドに出現した釈尊は法界(ほうかい)の真理と生命の根源を説き明かすために生命に備(そな)わる働きや仏の徳を具(ぐ)象(しょう)的(てき)・擬(ぎ)人(じん)的(てき)に仏・菩薩の名を付けて表現されたのです。たとえば智慧(ちえ)を文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)、慈悲(じひ)を弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)、病(やま)いを防(ふせ)ぎ、癒(い)やす働きを薬師(やくし)如来(にょらい)・薬王(やくおう)菩薩(ぼさつ)、美しい声を妙音(みょうおん)菩薩(ぼさつ)というように、それぞれに名を付(つ)けられました。

これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用(りきゆう)を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然(げんぜん)とインドに誕生され、宇宙(うちゅう)の真理を悟り、人々に多くの教えを遺(のこ)されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義(じんぎ)に疑いをもつ人はいないでしょう。

この釈尊が究極(きゅうきょく)の教えとして説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予(よ)証(しょう)されました。その予証とは、法華経を行ずる故に刀(かたな)や杖(つえ)あるいは瓦(が)石(しゃく)で迫害(はくがい)されること、悪口(あっく)罵詈(めり)されること、しばしば所払(ところばら)いの難に遭(あ)うこと、迫害者(はくがいしゃ)の刀が折(お)れて斬(き)ることができないなどのことですが、この予言どおりに、うち続く大難の中で民衆救済のために究極の本法たる文底(もんてい)の法華経を説き、未来(みらい)永劫(えいごう)の人々のために大御本尊を顕(あら)わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。

日蓮大聖人はひとりの人間としての人格の上に本仏の境界(きょうがい)を現実に示されたのです。

もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚(ようち)な考えであり、ためにする言(い)い掛(がか)りというべきです。

3 宗教は精神修養にすぎないのではないか

精神修養(せいしんしゅうよう)とは、精神を錬磨(れんま)し品性(ひんせい)を養(やしな)い人格(じんかく)を高めることですが、一般には心を静(しず)め精神を集中することをいうようです。

芸術やスポーツなどを通(とお)して精神を磨(みが)き、人格を高めるならば、それは立派(りっぱ)な精神修養です。

数多い宗教のなかには、精神修養の美名(びめい)を看板(かんばん)にして布(ふ)教(きょう)するものがあります。その代表的なものとして禅宗(ぜんしゅう)があげられます。

煩雑(はんざつ)な毎日(まいにち)に明けくれている現代人にとって、心を静めて精神を集中する機会(きかい)が少ないためか、管理(かんり)職者(しょくしゃ)や運動選手の精神統一の場として、あるいは社員教育の場として、座禅(ざぜん)が取り入れられ、ブームになっているようです。

では宗教の目的は精神修養にあるのかという点ですが、仏教では、精神を統一し心を定(さだ)めて動(どう)じないことを禅定(ぜんじょう)とか三昧(さんまい)といい、仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)のための初歩的な心構(こころがま)えとして教えており、これが仏教の目的でないことはいうまでもありません。

また人格品位(ひんい)の修養についていえば、仏教の中の小(しょう)乗(じょう)教(きょう)では、悪心(あくしん)悪業(あくごう)の原因は煩悩(ぼんのう)にあり、煩悩を断滅(だんめつ)して身も心も正(ただ)された聖者(せいじゃ)になることがもっとも大切であると説き、戒律(かいりつ)を守り智慧(ちえ)を磨くことを教えました。これを二(に)乗(じょう)(声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく))の教えといいます。しかし大(だい)乗(じょう)教(きょう)では、自分だけが聖者になっても他(た)を救おうとしないのは狭(きょう)小(しょう)な考えであり、思考(しこう)や感情に誤(あやま)りのない聖者でも、それだけでは真実の悟(さと)りではないと、小乗教を排斥(はいせき)し、自他(じた)ともに成仏(じょうぶつ)を目指(めざ)す菩薩の道を示(しめ)しました。

そして究極(きゅうきょく)の法華経では、さらに進めて、仏が法を説く目的は、二乗や菩薩になることではなく、一仏(いちぶつ)乗(じょう)といって衆生(しゅじょう)を仏の境界(きょうがい)に導(みちび)くことに尽(つ)きるのであると教えられたのです。これを開三顕一(かいさんけんいち)(三乗を開いて一仏乗を顕(あら)わす)といいます。

もちろん宗教で説く二乗や菩薩の道が直(ただ)ちに現今(げんこん)の精神修養とまったく同じということではありませんが、少なくとも二乗や菩薩の教えの一部分に人格と品性(ひんせい)の向上(こうじょう)を計(はか)る精神修養の意義(いぎ)が含(ふく)まれているということができましょう。

釈尊は、

「如来(にょらい)は但一仏乗(ただいちぶつじょう)を以(もっ)ての故に、衆生(しゅじょう)の為に法を説きたもう」

(方便品第二・開結103㌻)

と説かれ、日蓮大聖人も、

「智者(ちしゃ)・学匠(がくしょう)の身と為(な)りても地獄(じごく)に墜(お)ちて何(なん)の詮(せん)か有(あ)るべき」

(十八円満抄・御書1519㌻)

と仰(おお)せられるように、仏法の目的は精神修養などに止(とど)まらず、成仏(じょぶつ)すなわち三世(さんぜ)にわたる絶対的(ぜったいてき)な幸福境界(きょうがい)の確立(かくりつ)にあるのです。

したがって、禅宗などで精神修養を売りものにしていることは、教義的に誤(あやま)っているだけでなく、仏教本来(ほんらい)の目的からも大きな逸脱(いつだつ)を犯(おか)す結果になっているのです。

4 「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方(ほう)がよいと思うが

「さわらぬ神にたたりなし」」とか「参(まい)らぬ仏に罰(ばち)は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持(も)たなければ、利益(りやく)も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には広くなにごとも近づかなければ無難(ぶなん)であるという意味に使われています。

たしかに間違(まちが)った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤(あやま)りです。

釈尊は、

「今(いま)此(こ)の三界は皆(みな)是(こ)れ我(わ)が有(う)なり。其(そ)の中(なか)の衆生は悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子なり。」

(譬喩品第三・開結168㌻)

と説かれ、世の中のすべては仏の所有(しょゆう)するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字(もじ)通(どお)り仏が悟(さと)られた真理(しんり)の法則(ほうそく)ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則(ほうそく)から逃(のが)れることはできません。

仏教では宇(う)宙(ちゅう)全体を指して法界(ほうかい)といいますが、日蓮大聖人は、

「法界一法として漏(も)るゝ事無き」

(御義口伝・御書1798㌻)

と仰(おお)せられ、仏が開悟(かいご)した法は宇宙法界に漏(も)れなくゆきわたっていると教えられています。

ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署(けいさつしょ)に近づかなければ罰(ばっ)せられることもないということと同じで幼稚(ようち)な理屈(りくつ)であることがわかるでしょう。

もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背(そむ)き、法を破(やぶ)る悪業(あくごう)の積(つ)み重(かさ)ねとなっていくのです。

ましてや仏の慈悲(じひ)は人を救(すく)い善導(ぜんどう)するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、親が我が子を導(みちび)く手段(しゅだん)として叱(しか)ることと同じで、それも親の愛情の一分(いちぶん)であることを知らなければなりません。

その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといってこそこそ逃(に)げ回(まわ)っている子供と同じことで、およそ健全(けんぜん)な人間に育(そだ)つはずはないのです。

いかに自分では信仰と無縁(むえん)のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在(そんざい)であり、また仏の掌(たなごころ)の上で生きていることに違(ちが)いはないのですから、自(みずか)らの人生をより爽快(そうかい)なものとし、充実(じゅうじつ)したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依(きえ)することが大切なのです。

5 現実生活の幸福条件はお金が第一ではないか

私たちが日常生活を営(いとな)むうえで、衣・食・住の全般(ぜんぱん)にわたってお金がたいへん重要で便利な役割(やくわり)を果(は)たしています。物品(ぶっぴん)の価値(かち)がお金に換算(かんさん)できることはもちろん、人間や機械の労力・能力そして生命までが金銭で贖(あがな)われています。

そのためにお金をすべてに先行して価値あるもののように思い、幸福条件の第一に挙(あ)げる考えの人は少なくありません。

しかしどんなに貴(き)重(ちょう)なお金であっても、所詮(しょせん)は人間社会によって産(う)み出された〝物〟であり、生活上の手段のひとつにすぎないのです。言い換(か)えれば、生きている人間そのものが主体者(しゅたいしゃ)で、金銭は人間によって考え出された流通(りゅうつう)上の約束(やくそく)ごとのひとつであるということです。

これを間違(まちが)えて、人間がお金に使われたり振(ふ)り回(まわ)されるところにとんでもない悲劇(ひげき)が生ずるのです。たとえば、お金をけちけちとためて満足な食事もせず、結局ためたお金を使うことなく餓死(がし)した老人がいました。また遺産(いさん)をめぐる親族間の争いが高(こう)じて殺人事件に発展した例、サラ金苦においつめられて殺人や強盗(ごうとう)に走る例もあれば、一家心中の例などお金をめぐる悲惨(ひさん)な事件は毎日のように報道されています。これはお金というものが、私たちの生活に大きな比(ひ)重(じゅう)を占(し)めている証(あか)しでもありますし、生死(せいし)にかかわるほど大きな影響力をもっている証(しょう)左(さ)でもあります。

同時にこれらの事例から、同じお金であってもそれを使う人間によって幸にも不幸にもなることがわかります。

つまり、お金は生活する上に必要なものですが、またお金によって不幸を招(まね)くこともあるということなのです。

ここに主体者(しゅたいしゃ)である人間を確立しなければ、真実にお金も財産も正しく生かされないという道理を知るべきなのです。

日蓮大聖人は、

「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」

(崇峻天皇御書・御書1173㌻)

と仰(おお)せられています。

私たちにとって大切な財宝(ざいほう)はいくつかありますが、お金などの蔵の財よりも、健康な身体が大切であり、それよりも大切な宝が人間の根本ともなる心の財なのです。

お金は、現代の幸福になる条件のひとつであることに違いはありませんが、それが幸福のすべてではありません。根本にある心の財を正しい信仰によって磨(みが)き、福徳(ふくとく)に満ちみちた人間になったとき、はじめて蔵の財(お金)にも恵(めぐ)まれ、それを正しく自在に使いこなしていけるのです。

せっかくためたお金や財産を不幸や悲劇の種にするか、幸福の種にするかは、その人の心と福徳によって決(き)まります。

物心両面にわたる幸福な人生を築くためにも、まず正しい仏法に帰依(きえ)し、信仰に励むことから出発しなければならないことを知るべきでしょう。

6 学歴(がくれき)や社会的地位こそ幸福の要件ではないか

レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大(だい)企(き)業(ぎょう)や官公庁(かんこうちょう)に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。

これについて二点から考えてみましょう。

第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。

最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁(ひんぱん)に起こっています。

現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担(ふたん)となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。

ではなぜ人々は苦労の多い地位を望(のぞ)むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望(がんぼう)であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬(うやま)われることなどが挙(あ)げられると思います。

とはいえ、もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合(てきごう)しない性格であったり、負担に堪(た)える人間的な能力がなければ、その人は苦痛(くつう)の毎日を送ることになるのです。

第二の点は、学歴(がくれき)至(し)上(じょう)主義(しゅぎ)がもたらす弊害(へいがい)と不幸がいかに大きいか、ということです。

たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼(おさな)いころから勉学に励(はげ)んできた努力によって、能力的に優(すぐ)れています。深い学識と幅(はば)広い教養による英知(えいち)はいずこの社会や職場にあっても、知的(ちてき)資源(しげん)、人的(じんてき)資材(しざい)として重要視されることは当然でしょう。

しかし誰もが一流校には入(はい)れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許(ゆる)される狭(せま)き門を目指(めざ)して、過酷(かこく)な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育(はぐく)むどころか、同級生を敵視(てきし)する状態(じょうたい)に追いやられています。

毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨(ひさん)な事件が相(あい)つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者(はいぼくしゃ)」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅(はめつ)になると考えるのは当然です。

まさに誤(あやま)った学歴偏重(へんちょう)の風潮(ふうちょう)が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅(ぞうふく)していくのです。

このような教育制度や教育行政(ぎょうせい)のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革(かいかく)しようとしても根本的な解決にはなりません。

なぜならば、教育問題は時代や社会機構(きこう)全体と深く関(かか)わっており、さらには人生観・価値(かち)観(かん)ともつながっている事柄(ことがら)だからです。

釈尊は現代を予言して、末法は五(ご)濁(じょく)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱(みだ)れ、人間の生命も思想も狂(くる)うことを指(さ)しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。

したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着(ていちゃく)したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実の幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。

以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉(ふくし)につながるわけでもないことがわかるでしょう。

真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々(ゆうゆう)と解決して乗り越えていくところにあります。

個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧(ちえ)をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽(つ)きるのです。

身につけた学識(がくしき)と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。

7 いまが楽しければそれでよいではないか

「いまが楽しければ」という言葉のひびきには、まったく将来(しょうらい)のことを考えず、苦しみを避(さ)けて、いまの楽しみばかりを追い求(もと)めるというニュアンスが感じられます。

それは、おそらく、若いときの楽しみは若い時にしか味わえないという考えから、オートバイの爆音(ばくおん)や、ロックの喧噪(けんそう)のなかに我(われ)を忘れ、酒や歌、そしてダンスに陶酔(とうすい)のひとときを過ごす若者たちに共通した考えかたであると思います。

その反面、いまの楽しみより将来の楽しみを目指(めざ)して、つらさに耐(た)え、少しでも自分のもてる能力や才能を伸(の)ばそうと、懸命(けんめい)な努力を重(かさ)ねている若者たちも、けっして少(すく)なくありません。

安易(あんい)に目前の快楽のみを求める若者たちの行きかたは、蟻(あり)とキリギリスの寓話(ぐうわ)の教訓をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比(くら)べて、あまりにも人間として分別(ふんべつ)のない、しかも後(あと)に必ず苦しみと後悔(こうかい)をともなう生きかたではないかと思います。

だからといって、人間は若いときには何が何でも苦労ばかりをして、楽しみなどを求めてはいけない、というのではありません。

青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤(きばん)を、しっかりと築き上げる時であると言いたいのです。

「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官(ごかん)から起る欲望を五識(ごしき)によって満たし、意識(心)にここちよく感ずることであると明かしています。

五官とは、眼(げん)(視官(しかん))・耳(に)(聴官(ちょうかん))・鼻(び)(嗅官(しゅうかん))・口(こう)(味官(みかん))・皮膚(ひふ)(触官(しょっかん))をさします。すなわち、眼にあざやかな色形(いろかたち)を見る楽しみ、耳にここちよい音や響(ひびき)を聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅(か)ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚(ひふ)(身体)にここちよいものが触(ふ)れる楽しみを欲(ほっ)するところを五欲(ごよく)といい、五官によって判断することを五識といいます。

要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合(どあい)に応じて起こる、情感(じょうかん)であることがわかると思います。

したがって、五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩(ぼんのう)(貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)などの迷い)が働きかけた時、はじめて五欲は、無謀性(むぼうせい)を発揮(はっき)し、欲望の暴走(ぼうそう)となってあらわれたり、意(こころ)のままに満たされない不満がつのって、怒(いか)りを感じたり、落胆(らくたん)のあまり、自暴(じぼう)自棄(じき)になったりして、自分や社会を破壊(はかい)してしまうことにもなりかねないのです。

五欲とは、ちょうど火のようなものだといえます。火そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使いかた如何(いかん)によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面、不始末(ふしまつ)などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに灰燼(かいじん)にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。

いわば、一時の快楽を飽(あ)きることなく求める若者たちは、煩悩(ぼんのう)の働きがそれだけ旺盛(おうせい)だともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火(もうか)をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益(ゆうえき)な火に転換(てんかん)させるところに、正しい宗教と信仰のもつ大きな意義があるのです。

8 宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか

宗教を信ずると、その宗教に没頭(ぼっとう)するあまり冷静(れいせい)な思考(しこう)能力や批判(ひはん)力、判断(はんだん)力がマヒして、自分なりの理性を持(も)てなくなるのではないか、という危惧(きぐ)をもつ人がいます。

たしかに、なんらの教義をもたない低級な新興宗教をはじめ、数多くの宗教は、たんに忘我(ぼうが)の境(きょう)地(ち)や、あきらめることのみを教え、人間の思考能力をマヒさせています。ここに邪(よこしま)な宗教の恐(おそ)ろしさがあります。

しかし、正しい因果(いんが)の道理(どうり)を説く仏教、なかでも法華経の教えにおいては、〝聞(もん)思(し)修(しゅう)の三慧(さんね)〟といって、仏道(ぶつどう)を成就(じょうじゅ)するためには正法をよく聞き、思惟(しゆい)し、修行しなければならないと説いてます。日蓮大聖人は、

「行学(ぎょうがく)の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず」

(諸法実相抄・御書668㌻)

と教(きょう)示(じ)されるように、正しい教えに則(のっと)り、修行と研学(けんがく)によって仏法の精神を求めることの大切さを説かれています。

また法華経を持(たも)つ者の功徳(くどく)の姿を示して、

「日蓮等(ら)の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は明鏡(めいきょう)に万像(ばんぞう)を浮かぶるが如(ごと)く知見(ちけん)するなり。此(こ)の明鏡とは法華経なり」

(御義口伝・御書1776㌻)

と説かれています。すなわち正しい仏法を信ずることによって、生命の本源が活動し、物ごとを正しく知見(ちけん)できるというのです。反対に間違った宗教を信ずる者や正しい仏法を持たない者は迷える心、煩悩(ぼんのう)の生命から物を見、考えているために、すべてを正しく見ることができないのです。まさに本心を失っているようなものです。

これについて、大聖人は、

「本心と云ふは法華経の信心の事なり。失(しつ)と申すは謗法(ほうぼう)の人にすかされて、法華経を捨(す)つる心出来(しゅったい)するを云ふなり」

(御講聞書・御書1857㌻)

とも説かれています。ここでいう本心とは、世間的な迷いの凡智(ぼんち)ではなく、本仏本法によってもたらされる仏智(ぶっち)であり、人生においてもっとも大切な真実の幸福を確立(かくりつ)する仏界の心を指しているのです。

ですから、真実の仏法とは、本心たる智慧(ちえ)の眼(まなこ)を開かせ、正しい人生を歩ませるための英知(えいち)を、生命の根源から涌現(ゆげん)させるものであることを知るべきでしょう。

9 宗教が社会に評価(ひょうか)されるのは福祉(ふくし)活動だけではないか

「福祉」という言葉は、〝幸福〟の意味ですから、広くいえば宗教の目的とも考えられます。しかし、ここでいう「福祉」は、困窮(こんきゅう)している人に物を恵(めぐ)み、飢(う)えた人に食(しょく)を与え、不自由な人の手助けとなり、なぐさめるという、一般的な意味であろうと思います。

たしかに極端(きょくたん)な個人主義と利己(りこ)主義によるぎすぎすした現代にあって、他人の幸せを願い福祉活動に奉仕(ほうし)することはきわめて尊いことであり、さらに広く深く社会に定着(ていちゃく)させてゆかねばなりません。政治や行政(ぎょうせい)の面からも福祉政策(せいさく)を協力に推進(すいしん)してほしいと願わずにはいられません。

しかし宗教の存在価値(かち)や目的が福祉活動への奉仕(ほうし)だけであると考えるのは、大(おお)いなる誤解(ごかい)です。なぜならば、宗教とりわけ仏法では、正法によって生(しょう)老(ろう)病(びょう)死(し)の四苦(しく)を解決し、成仏という確固(かっこ)不動(ふどう)の安穏(あんのん)な境地に至ることを真実の救済とし、本来の目的としているのに対し、一般的な福祉活動はあくまで表面的一時的な救済措置(そち)だからです。

またもし宗教の存在価値が、人々に物を与え、不自由な人の手助けをし、悩める人を慰(なぐさ)めるだけで事(こと)足りるというならば、仏がこの世界に出現し、苦難と迫害(はくがい)の中で身命を賭(と)して法を説く必要があったのでしょうか。私たちも本尊を礼拝(らいはい)し、修行を積み、教義の研鑽(けんさん)をすることもすべて不要となってしまうではありませんか。

真実の宗教とは正しい法を信仰することによって、生命の根源(こんげん)に光をあて、活力にみちた仏の働きを涌(わ)きあがらせて、力強い人生を確立(かくりつ)することにその目的があるのです。

他人への親切や親への孝養といっても具体的な形態(けいたい)はさまざまです。仏法では人間を深く観達(かんたつ)したうえで、孝養に三種ありと次のように説いています。

「孝養に三種あり。衣食(えじき)を施(ほどこ)すを下品(げぼん)とし、父母の意に違(たが)わざるを中品(ちゅうぼん)とし、功徳(くどく)を回向(えこう)するを上品(じょうぼん)とす」

(十王讃嘆抄・平成校定3―2781㌻)

ここにも、物を与える孝養は下品であり、意にかなうことが中品、仏法によって功徳を回向(自ら修行した果報(かほう)を他に回(めぐ)らし向かわせること)することがもっとも尊(とうと)いことであり上品であると明かしています。

物を与え、慰労(いろう)するところの福祉活動が正しく実践(じっせん)され、持続し、実効(じっこう)を生むためにも、原点となる個々の人間に正しい智慧(ちえ)と活力を与える真実の仏法が必要なのです。

いい換(か)えれば、福祉活動をはじめ文化・社会・教育・政治などの各方面における活動、そして人間がなすすべての営(いとな)みの基盤(きばん)となり、根底にあって善導(ぜんどう)し、活力を与えてゆくのが正しい宗教なのです。

10 現実生活をさげすみ、偽善的(ぎぜんてき)態度をとる宗教者がきらいだ

世間の数多い宗教家といわれる人の中(なか)には表面はいかにも聖職者(せいしょくしゃ)らしく、俗界(ぞっかい)を超越(ちょうえつ)した仙人(せんにん)か生き仏のように振(ふ)る舞(ま)い、世俗(せぞく)の人々を見下(みくだ)した態度をとる人がいます。

とくにキリスト教や戒律(かいりつ)を重(おも)んずる宗教、新興宗教の教(きょう)祖(そ)と称する人にこの傾向(けいこう)が強いようです。

しかし本当にこの世に生きる身で、世間を超越(ちょうえつ)することなどできるわけがありません。それこそ、〝霞(かすみ)を食(く)って生きる〟ことなどできるわけがないのですから、もし世俗を超越したように振る舞ったり、現実生活を蔑む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々を欺(あざむ)いています。

涅槃(ねはん)経(ぎょう)には、末代の僧侶について、

「持律(じりつ)に似像(じぞう)して少(すこし)く経を読誦(どくじゅ)し飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して其(そ)の身を長養(ちょうよう)し、袈裟(けさ)を著(ちゃく)すと雖(いえど)も猶(なお)猟(りょう)師(し)の細めに視(み)て徐(しずか)に行くが如(ごと)く、猫(ねこ)の鼠(ねずみ)を伺(うかが)うが如し」

と説かれています。この意味は、表面は戒律を持(たも)ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪(むさぼ)り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物(えもの)をねらって徐行(じょこう)し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。

また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。

この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中(がんちゅう)にはなく、ただ欲心(よくしん)のみが旺盛(おうせい)な「葬式(そうしき)法事(ほうじ)執行(しっこう)業(ぎょう)」に堕(だ)しているのです。

これらの姿を見れば、宗教家を嫌(きら)うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には堕落(だらく)しているのもいれば、正法を護持(ごじ)し清潔(せいけつ)高邁(こうまい)な人格と慈愛(じあい)を有(ゆう)する人もいます。一般の在俗(ざいぞく)の方でも同様(どうよう)に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いはなにに起因(きいん)するのでしょうか。

日蓮大聖人は、

「法妙なるが故に人貴(たっと)し、人貴きが故に所尊(たっと)し」

(南条殿御返事・御書1569㌻)

と仰(おお)せられ、人の尊卑(そんぴ)は受持(じゅじ)するところの法の正邪によると説かれています。はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も必ず濁(にご)ってしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌(い)み嫌うならば、その元凶(げんきょう)である邪教悪法を恐れなければならないのです。

結論からいえば、末法という濁悪(じょくあく)の現時における真実の本仏は、法華経文底(もんてい)秘沈(ひちん)の大法を所持(しょじ)される日蓮大聖人にほかなりません。

大聖人は、

「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」

(一谷入道女房御書・御書830㌻)

と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、歴代の法主上人に受け継がれて日蓮正宗に伝えられています。

日蓮正宗は、小乗教のような戒律宗教でもありませんし、聖人(せいじん)君子(くんし)になるための宗教でもありません。正宗の僧俗(そうぞく)はともに正法たる大御本尊を信受(しんじゅ)し、行学(ぎょうがく)に励み、真実の平和と福祉(ふくし)社会の実現を目指して日夜(にちや)精進(しょうじん)しているのです。

11 自己の信念を宗教としている

人は誰(だれ)でもなんらかの信念を持って生きています。それも人生全般に関(かか)わる信念もあれば、人生の部分に対する信念もあります。

たとえば「宵越(よいご)しの金は持たない」という人もいれば、「無駄(むだ)遣(づか)いはしない」という人もいます。また「少々の熱や咳(せき)は働いていれば治(なお)る」と信じている人もいれば、「少しでも具合(ぐあい)が悪ければ医者に行くに限(かぎ)る」という人もいるというように、一人の人間の信念といっても、金銭面・健康面・教育面・職業面などにわたって多種(たしゅ)多様(たよう)です。

しかもそれらの信念は、その時代や環境・年齢(ねんれい)などによって変化することも多いのです。

それは人間の心が常に揺(ゆ)れ動くものであり、その心によって生(う)み出される価値(かち)観(かん)や信念が定まることなく変化するのは当然といえましょう。と同時に私たち凡人(ぼんじん)の智慧(ちえ)や判断にはおのずから限界(げんかい)があることも当然です。

このような個人的な信念を宗教とする生き方が、はたして正しいのでしょうか。

「宗教」とは、真理を悟(さと)り究(きわ)めた聖者(せいじゃ)が、人々のために根本の正しい道を説き示して救済することを意味しています。

すなわち、正しい宗教とは法界(ほうかい)の真理を悟り究めた仏の教えであり、人生にとって不変の根本原理として、すべての人々を安穏(あんのん)な境界に導くとともに、人間に勇気と希望と活力を与える源泉(げんせん)なのです。

したがって仏の説き示された教えと、個人の不安定な信念とは天地(てんち)雲泥(うんでい)の異(こと)なりがあるわけですし、これを同等(どうとう)に考えることは宗教の意義をまったく理解していないことになります。

個人の信念のみを強調して宗教を否定(ひてい)する人のなかには、「一定の宗教を持つと教義や規則(きそく)に拘束(こうそく)されて、画一的(かくいつてき)な人生観や価値観を押しつけられ、人間の個性や自由が奪(うば)われるのではないか」と懸念(けねん)するむきもあるようです。

しかし日蓮正宗の教えは、あたかもさまざまな草木や花をすべて育(そだ)て養(やしな)う大地のように、ひとりひとりの個性や信念を超(こ)えて、それぞれの人生を開発(かいはつ)し、開花させるものであり、けっして画一的(かくいつてき)な価値観や思想を押しつけるものではありません。

現実に日蓮正宗を信仰する人々は、家庭や職業・年齢・地域などによってそれぞれ異なった信念のもとで生活しておりますし、個性も抑圧(よくあつ)されるどころか、信仰に培(つちか)われて、より健全(けんぜん)に伸(の)び伸びと発揮(はっき)しつつ社会の中で活躍しています。

また日ごろはそれほど信念について固(こ)執(しゅう)したり深く考えているわけでもないのに、こと宗教や信仰の議論(ぎろん)になると、とたんに取って付けたように「自分は信念を宗教にしている」などと理屈(りくつ)を並(なら)べる人もいるようです。

いずれにせよ私たちの能力には限界があり、性格的なくせもあれば欠点もあって、けっして完全ではありません。時には思い違(ちが)いや人生を狂わせる考えに陥(おちい)ることもありましょう。

あなたの信念をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに結実(けつじつ)させるためには、主体者(しゅたいしゃ)であるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依(きえ)し、信仰に励(はげ)むことが絶対に必要なのです。

12 宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるのではないか

幸福という概念(がいねん)は、人によっていろいろなとらえかたがあるようです。一般には、健康とか、家庭円満とか、金銭的に恵まれているといったように、いわゆる、運がよく幸(しあわ)せなことや、心が満ちたりて楽しい状態にあることを指して幸福というようです。

しかし実際に今、健康に、家庭円満に、そして裕福(ゆうふく)に見える人たちが、必ずしもそれらに満足(まんぞく)して楽しく生活してるとはいえない場合が多いのではないでしょうか。

むしろ、「珍膳(ちんぜん)も毎日食(くら)えば甘(うま)からず」とか「欲に頂(いただき)なし」といわれるように、かえって、恵まれた生活に生ずる特有(とくゆう)の倦怠(けんたい)や不平不満、欲望(よくぼう)のぶつかりあいによる人間不信や争(あらそ)いなど、さまざまな不幸に苦しんでいるという例も、少なからずあるのです。

まれに、現在の恵まれた生活に満足している人があったとしても、人生の無(む)常(じょう)からは、どのような人もけっして逃(のが)れることはできません。

人生の無(む)常(じょう)とは、生(せい)あるものは死に、若きものは老(お)い、健(すこ)やかなるものも患(わずら)うなど、一切のものは生滅(しょうめつ)し変化して、しばらくも同じ姿を保(たも)つことができないとの意味です。

仏典には、カピラ城(じょう)の太子(たいし)として、優(すぐ)れた身体を持(も)ち、あらゆる栄華(えいが)につつまれて暮(く)らしていた釈尊(しゃくそん)が、そのすべてを捨(す)てて出(しゅっ)家(け)し、さまざまな修行のすえ、三十歳の時、菩提樹(ぼだいじゅ)の下(もと)で、ついに人生無常の苦を真に解決する法を、悟(さと)られたと説かれています。

したがって、この世に人生無常の苦を真に解決して、生滅(しょうめつ)・変化に惑(まど)わされることなく、いかなる幸せをも自在(じざい)に顕現(けんげん)していく道は、正しい仏法に帰依(きえ)すること以外にはないのです。

それでもなお、あなたは「宗教をもたなくても幸福な人はたくさんいる」というのでしょうか。

それはまさしく「三重の楼(たかどの)の喩(たとえ)」(百(ひゃく)喩(ゆ)経第十)に説かれる「富(と)みて愚(おろか)の人」と変わるところがありません。

そのたとえとは、「あるとき、彼は他の富豪(ふごう)の屋敷(やしき)が立派(りっぱ)な三階建てであるのを見て、自分もそれにまさる建物を建てようと思い、すぐさま大工(だいく)さんを呼んで頼(たの)んだのです。

さっそく基礎(きそ)工事をして、一階を作り始めた大工さんに、不審(ふしん)を感じた愚かな富豪は「私は三階だけがほしいのだ、下の一、二階はいらないのだ」と言い張(は)って、「一階をつくらずに二階はできないし、二階をつくらずに三階はできない」という大工さんの言い分(ぶん)を、最後まで聞かなかった」という話です。

正しい宗教を持たない人の幸福は、この愚かな富豪の考えと、同じようなものといっても過言(かごん)ではありません。

しっかりとした土台の上にある建物は、どのような風にあたっても壊(こわ)されることがないように、正しい宗教を人生の基礎とし・土台としたときには、いかなる無常の苦しみや不幸という風にも、けっして壊されることのない幸福を築いていけるのです。

このように、人生における確固不動(かっこふどう)の真の幸福は、正しい宗教を正しく信仰することによってのみ、もたらされるのです。

13 人生の幸福とは努力以外にない

人生にとって、努力はきわめて大切なものです。なんの努力もせずに、幸せな人生を築(きず)けるはずはありません。

しかしながら、努力といっても、ただ自分の思いつきで、がむしゃらに何事(なにごと)にも挑戦(ちょうせん)さえすればよいというものではありません。

たとえば、これから書道を習おうとするとき、立派(りっぱ)な先生について、修練(しゅうれん)と努力を重ねる人は、着実(ちゃくじつ)に進歩することでしょう。

しかし、師(し)を求めず、自分の才能(さいのう)と、自分の信念で努力さえすればよいといって、ただ毎日書きなぐっているだけでは、上達(じょうたつ)することはできません。

このように、その努力をより価値(かち)あるものに実らせるためには、良(よ)き指導者の正しい教導(きょうどう)に従(したが)って努力してこそかなうのです。

ましてや意義ある人生、幸せな家庭、人生の充実した喜びを持つためには、その基本となる人生についての、最大にして最高の指導者である仏の教導に触(ふ)れるということが大切です。

私たちは人生の土台となる根もとに、真実の師である仏の教えを持(たも)ち、その上に幹(みき)となる自分自身の人格と人間性を磨(みが)きつつ、努力と精進(しょうじん)を重(かさ)ねる時、はじめて緑したたる大樹(たいじゅ)へと成長するのです。

日蓮大聖人は、

「蒼蠅(そうよう)驥尾(きび)に附(ふ)して万里(ばんり)を渡り、碧蘿(へきら)松頭(しょうとう)に懸(か)かりて千尋(せんじん)を延(の)ぶ」

(立正安国論・御書243㌻)

と仰(おお)せられています。すなわち、青ばえのような小さな虫でも、駿(しゅん)馬(め)の尾(お)につくことによって万里(ばんり)を馳(は)せ、つる草も松の大木にかかることによって、天高くのびていくことができるのです。

このように私たちもいかなる道を歩(あゆ)もうとも、正しい信仰を根本として努力を重ねるならば、正法の功力(くりき)によって福徳(ふくとく)の花が咲(さ)き、その努力が大きな実(み)を結(むす)び、真実の幸せな生涯(しょうがい)をまっとうすることができるのです。

14 道徳(どうとく)さえ守っていれば宗教の必要はない

道徳とは現実の社会に、善良(ぜんりょう)な人間として生きて行くために、みずからを律(りつ)し、たがいに守るべき社会的な規範(きはん)をいいます。

したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別(ふんべつ)を心得(え)て、みずからの良心にも、社会的な規範にも恥(は)じることのないように生活してゆくことが大切です。

しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)し、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。

つまり道徳は、今世(こんぜ)に生きる人々の生活を正し、人間性を高(たか)める意味での指針(ししん)とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世(さんぜ)の因果(いんが)を説かず、三世にわたる一切の人々の救済(きゅうさい)とはなりえません。

日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、

「王臣(おうしん)を教へて尊卑(そんぴ)をさだめ、父母を教へて孝(こう)の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依(きえ)をしらしむ」

(開目抄・御書524㌻)

と仰(おお)せになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分(じょぶん)の役割(やくわり)をはたすものだと記(しる)されています。

昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養(こうよう)」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕(つか)え、その恩に報(むく)いることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年老(お)いた両親の面倒(めんどう)をみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、皆(みな)ともに救っていくというところにきわまるのです。

したがって仏法では正法による孝養を、「上品(じょうぼん)の供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養は、いわば「下品(げぼん)の供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。

大聖人は、

「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏(ほとけ)になるのみならず、父母仏(ほとけ)になり給ふ。上(かみ)七代下(しも)七代、上(かみ)無(む)量(りょう)生(しょう)下(しも)無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給ふ(中略)『願はくは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及(およ)ぼし、我等と衆生(しゅじょう)と皆共(とも)に仏道を成(じょう)ぜん』」

(盂蘭盆御書・御書1377㌻)

と、正法を行ずる大善(だいぜん)こそ、自ら仏の境(きょう)地(ち)に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。

このように正しい信仰をとおして自分を磨(みが)き、さらに世の中の人々を教(きょう)化(け)して、正法の功徳を社会の一切(いっさい)の人々に及(およ)ぼし、ともどもに仏道を成就(じょうじゅ)することが、最高最善の生き方となるのです。

15 無神論(むしんろん)ではなぜいけないのか

無神論とは、信仰の対象(たいしょう)となる神や仏などの絶対的存在(そんざい)の事実と可能性(かのうせい)を否定(ひてい)する考えで、「無信論」と書く場合もあります。無信論といっても、信用とか信頼(しんらい)などの日常生活上の心理(しんり)作用(さよう)まで否定するのではなく、あくまでも宗教的な絶対者、あるいは絶対力(ぜったいりき)の存在を認めないということです。

また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的(ゆいしんてき)な主張(しゅちょう)をする人もいます。

たしかに、ほとんどの宗教で説く神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果(いんが)の道理(どうり)に外(はず)れた空想(くうそう)の産物(さんぶつ)ですから、無神論を唱(とな)えることも無理(むり)からぬことかもしれません。

これに関(かん)して面白(おもしろ)い話があります。あるキリスト教の教会で、全智(ぜんち)全能(ぜんのう)の神について語り終(お)えた牧師(ぼくし)に向かって、ひとりの少年が尋(たず)ねました。「何(なん)でも可能な全智全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造(つく)れますか」と。牧師は返答(へんとう)に窮(きゅう)して口を閉(と)じてしまったということです。

この話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかに矛(む)盾(じゅん)にみちたものであるかを、短い中に鋭(するど)く指摘(してき)しています。

しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。無神論者と称(しょう)する人は、神や仏がまったく存在しないことを立証(りっしょう)できるのでしょうか。少なくとも仏教に耳を傾(かたむ)け、仏典(ぶってん)を繙(ひもと)いたことがあるでしょうか。

もしあなたが自(みずか)らの狭小(きょうしょう)な体験や臆測(おくそく)をもって、無神論を主張するならば、それはあまりにも単純(たんじゅん)な発想(はっそう)であり、甚(はなは)だしい無(む)認識(にんしき)の評(ひょう)価(か)であるといわざるをえません。

今、参考までに仏教の概要(がいよう)を説明しますと、仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。釈尊は当時流行していた超(ちょう)現実的(げんじつてき)な絶対神を立てる宗教を邪義として排斥(はいせき)し、自(みずか)らの修行と思索(しさく)によって悟(さと)り究(きわ)めた法を五十年間にわたって諄々(じゅんじゅん)と説き、その最後に究極(きゅうきょく)の実教(じっきょう)たる法華経を宣説(せんぜつ)されました。その教えは、因果(いんが)の理法を基底(きてい)として、法界(ほうかい)の真理と人間生命の実相(じっそう)を開示(かいじ)するものであり、衆生(しゅじょう)が生(しょう)老(ろう)病(びょう)死(し)の四苦(しく)を根本的に解決して真実の幸福境界(きょうがい)に至ることを目的としたものでした。そして法華経に予(よ)証(しょう)されたとおりに末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。

日蓮大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血(しんけつ)を注(そそ)いで多くの教えを遺(のこ)すとともに、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)成仏の法体(ほったい)として大御本尊を図顕(ずけん)されました。

この大聖人の仏法は、経文(きょうもん)に照(て)らし合わせ(文証(もんしょう))、因果律(いんがりつ)や現実の道理に照らし(理(り)証(しょう))、実際に信仰した結果を見ても(現証(げんしょう))、一点の曇(くも)りもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。

もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力(くどくりき)を信じられないというならば、謙虚(けんきょ)に仏法の教えを乞(こ)い、自(みずか)ら仏道を求めるべきでありましょう。

日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然(げんぜん)と存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていることはまぎれもない事実です。

この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論に固(こ)執(しゅう)するならば、それは、精神異常者のような精神構造(こうぞう)というべきです。

大聖人は、無信(むしん)・無(む)行(ぎょう)の者に対して、

「謗(ぼう)と云ふは但(ただ)口を以(もっ)て誹(そし)り、心を以て謗(そし)るのみ謗には非(あら)ず。法華経流布(るふ)の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」

(戒体即身成仏義・御書10㌻)

と仰(おお)せられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法に背(そむ)く大罪(だいざい)であると、固(かた)く戒(いまし)められているのです。