1 宗教に正教(せいきょう)邪教(じゃきょう)があることがわからない

なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問うとき、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを(かな)えてほしいといい、またある人は先祖の冥福(めいふく)を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。

現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格(ごうかく)祈願(きがん)のための神社をはじめ、水子(みずご)供養(くよう)専門(せんもん)の寺院とか、虫封(むしふう)じの神社があるかと思えば〝とげ()き地蔵〟なるものまで、多種(たしゅ)多様(たよう)の宗教があります。

また信仰する対象(たいしょう)も、同じキリスト教でも(じゅう)字架(じか)(おが)むものや聖書(せいしょ)・マリア像・キリスト像を(おが)むものなどさまざまですし、仏教でも釈尊(しゃくそん)(ぞう)を拝むものや、大日如来(だいにちにょらい)阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)薬師(やくし)如来(にょらい)などの仏や、観音(かんのん)弥勒(みろく)などの菩薩(ぼさつ)、あるいは大黒天(だいこくてん)弁財天(べんざいてん)などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐(たき)に分かれています。

もし宗教が(たん)に気休めや精神(せいしん)修養(しゅうよう)のための手段(しゅだん)ならば、それはちょうど音楽の()きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の(この)みによればよいということになるかもしれません。

でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁(むえん)のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪(ぜんあく)真偽(しんぎ)正邪(せいじゃ)によって大きな影響(えいきょう)を受けることになり、それが人生の指針(ししん)にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。

たとえば、進学や就職(しゅうしょく)、結婚などは(だれ)でも慎重(しんちょう)選択(せんたく)するでしょうし、日常生活でも乗物(のりもの)や食べ物あるいは医薬品(いやくひん)などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択(せんたく)()(じゅん)として、自分の経験(けいけん)や、道理(どうり)適否(てきひ)実験(じっけん)の結果・()(しょう)有無(うむ)・他者の(ひょう)()などを考慮(こうりょ)したうえで、できる限り、よい価値(かち)を生ずるもの、すなわち満足(まんぞく)できるものを選ぶのではないでしょうか。

これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が(こと)なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、

小乗経(しょうじょうきょう)大乗経(だいじょうきょう)並びに法華経は、文字はありとも衆生(しゅじょう)(やまい)の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行(じょうぎょう)菩薩(ぼさつ)出現(しゅつげん)して妙法蓮華経の五字を一閻浮提(いちえんぶだい)一切(いっさい)衆生(しゅじょう)にさづくべし」

(高橋入道殿御返事・御書887㌻)

(おお)せのように、三毒(さんどく)強盛(ごうじょう)末法(まっぽう)の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬(だいりょうやく)を与えるべきことを(きょう)()されています。

釈尊も法華経において、

唯一乗(ただいちじょう)(ほう)のみ有り、二無(にな)(また)(さん)()し」

(方便品第二・開結110㌻)

と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを()かされています。

いいかえると、この経文は一乗の法すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。

このように、宗教には正邪(せいじゃ)の区別があることを知らなければなりません。

2 宗教を判定(はんてい)する場合の基準(きじゅん)には、どのようなものがあるのか

正しい宗教の条件(じょうけん)としては、まず人間の世界を(はな)れた架空(かくう)の世界を基盤(きばん)とした宗教ではなく、人間のための宗教であり、人間がよりよく、幸せに生きるための宗教であることが大事です。そのためには、正しい生命観(せいめいかん)(もと)づき、正しい道理(どうり)(そな)え、全人類を救済(きゅうさい)する現実の力をもった宗教であることが大切です。

ではどのような方法で宗教を判定したらよいのでしょう。

日蓮大聖人は、次のような基準をもって宗教の正邪(せいじゃ)を判定することを教えられています。

三証(さんしょう)

文証(もんしょう)理証(りしょう)現証(げんしょう)のことをいいます。

文証とは、経論(きょうろん)などによる証拠(しょうこ)であり、教えが独断(どくだん)ではなく、仏の説いたお経によっても裏付(うらづ)けられるかどうかを確かめることです。

理証とは、教えが因果(いんが)の道理にかなっているかどうかを確かめることです。

現証とは、その教えがたんに理論のみの観念(かんねん)ではなく、現実の人間の生活の上にどのように証明されるかを確かめることです。

五義(ごぎ)

(きょう)()()(こく)(きょう)(ぼう)流布(るふ)先後(せんご)の五つを知ることをいい、宗教の五綱(ごこう)ともいいます。仏法を広めるに当たっての規範(きはん)であり、この観点(かんてん)(もと)づいて正しい宗教を選択(せんたく)することです。

「教を知る」とは、仏菩薩(ぶつぼさつ)の説いた(きょう)(りつ)(ろん)や、あらゆる思想、哲学、宗教の勝劣(しょうれつ)浅深(せんじん)見究(みきわ)めることです。

「機を知る」の機とは衆生(しゅじょう)機根(きこん)であり、教えを受け入れられる状態にあるかどうかを見定(みさだ)めることです。

「時を知る」とは、広まる教えに相応(そうおう)した時代であるかどうかを知ることです。

「国を知る」とは、それぞれの国が、どのような教えに(えん)のある国かを知ることです。

「教法流布の前後を知る」とは、先に広まった教えを知って、次に広まるべき教えを知るということです。

この五義のうちの、教の勝劣浅深を判定する基準として、()(じゅう)相対(そうたい)()(じゅう)三段(さんだん)()(じゅう)興廃(こうはい)()(じゅう)浅深(せんじん)三重(さんじゅう)秘伝(ひでん)などがあります。このなかのおもなものを簡単に説明しますと、

「五重相対」とは、内外(ないげ)相対・大小(だいしょう)相対・権実(ごんじつ)相対・本迹(ほんじゃく)相対・種脱(しゅだつ)相対の五重であり、仏教以外のすべての教えと仏教との比較(ひかく)検討(けんとう)から始まり、小乗教(しょうじょうきょう)より大乗教(だいじょうきょう)権大乗教(ごんだいじょうきょう)より実大乗教(じつだいじょうきょう)、法華経迹門(しゃくもん)より本門、文上(もんじょう)脱益(だっちゃく)より文底(もんてい)下種(げしゅ)と、次第に高度な教えを選択(せんたく)していく方法です。

「四重興廃」とは、釈尊の教えを、爾前経(にぜんぎょう)、法華経迹門、法華経本門、観心(かんじん)、と従浅(じゅうせん)至深(しじん)して勝劣(しょうれつ)興廃(こうはい)を判じることです。

これらの基準に基づいてさまざまの角度(かくど)から判定を重ねるとき、はじめて唯一(ゆいいつ)の正法を選定(せんてい)することができるのです。

3 どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい

現在日本における宗教(しゅうきょう)法人(ほうじん)の総数は、十八万三千四七一あり、法人格(ほうじんかく)を持たない宗教団体を(ふく)めると二十二万七千余もあるといわれています。(平成九年宗教年鑑調査による)

これほど多くの宗教を、実際(じっさい)に自分の目で善悪(ぜんあく)(たし)かめたいといってもそれは不可能(ふかのう)なことです。

またそのなかで仏法の教えは特に難信(なんしん)難解(なんげ)であり、体験(たいけん)の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪(せいじゃ)を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯(いっしょうがい)(つい)やしてもできることではありません。結局(けっきょく)はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。

たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、(だれ)が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索(せんさく)し続けて、結局向う岸に()きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得(なっとく)しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。

時には批判(ひはん)し、詮索(せんさく)することも必要ですが、元来(がんらい)仏教に(かぎ)らず、すべて宗教は信ずることから始まります。

法華経には、

(しん)(もっ)()ることを()たり」

(譬喩品第三・開結175㌻)

とあり、日蓮大聖人は、

「仏法の根本は信を以て(みなもと)とす」

(日女御前御返事・御書1388㌻)

と教示されています。

また大聖人は、

有解無(うげむ)(しん)とて法門をば(さと)りて信心なき者は(さら)成仏(じょうぶつ)すべからず。有信(うしん)無解(むげ)とて()はなくとも信心あるものは成仏すべし」

(新池御書・御書1460㌻)

と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、

「法華本門の観心(かんじん)()(もっ)一代(いちだい)聖教(しょうぎょう)(あん)ずるに(あん)羅果(らか)を取って掌中(しょうちゅう)(ささ)ぐるが(ごと)し」

(十法界事・御書176㌻)

(おお)せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深(せんじん)は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。

正しい御本尊を信受(しんじゅ)修行(しゅぎょう)することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮(はっき)され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。

4 なぜ他の宗教を捨てなければならないのか

釈尊は、一代経の究極(きゅうきょく)である法華経に、

正直(しょうじき)方便(ほうべん)()てて、(ただ)()(じょう)(どう)を説く」

(方便品第二・開結124㌻)

(おお)せられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上(むじょう)の教えである法華経を最高唯一(ゆいいつ)のものとして説かれました。そしてさらに、

余経(よきょう)一偈(いちげ)をも()けざる()らん」

(譬喩品第三・開結183㌻)

(いまし)めています。

末法においては御本仏日蓮大聖人が建立(こんりゅう)された南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因(もんていほんにん)(みょう)の法華経といって究極中の究極であり、すべての(ぶつ)菩薩(ぼさつ)をはじめ全世界の民衆(みんしゅう)を根本から成仏(じょうぶつ)させる無上最高の真実(しんじつ)(ほう)なのです。

したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教(ごんぎょう)ともいいます。(ごん)とは〝かり〟の意で、権教とは実教(じっきょう)に対する言葉です。

人がもし〝かり〟の教えを真実のものと信じこんでその(とお)りに実行したならばどうでしょうか。月収(げっしゅう)が来月から十倍になるという仮定(かてい)の話をまともに受けて浪費(ろうひ)をしたら家計(かけい)はどうなるでしょうか。権教を信ずる人は、現実と遊離(ゆうり)した架空(かくう)仮定の人生を(あゆ)むことになるのです。

さらに日蓮大聖人は、

「『了義経(りょうぎきょう)()って()了義経(りょうぎきょう)に依らざれ』と(さだ)めて、経の中にも了義・不了義経を糾明(きゅうめい)して信受(しんじゅ)すべき」

(開目抄・御書558㌻)

と教えられています。了義経とは完全(かんぜん)無欠(むけつ)な教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典(きょうてん)のことで、日蓮正宗以外の宗旨(しゅうし)宗派(しゅうは)はすべて不了義経に()たります。

どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも(なん)の経をよりどころとしているのか、教理(きょうり)が完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見(がいけん)設備(せつび)も立派であるが、エンジンが故障(こしょう)している飛行機(ひこうき)のようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。

また、正しい教え以外の宗教を「覆相(ふそう)(きょう)」といいます。これは真実の教えを(おお)いかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを(のぞ)かなければならないのです。

ここを大聖人は、

「今の時は権教即実教の(かたき)()る」

(如説修行抄・御書672㌻)

と仰せられています。

人々を救おうとする仏の真実の教に敵対(てきたい)する不完全な宗教は、人間を生命の奥深(おくふか)いところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法(あくほう)とも苦の(いん)ともいうのです。

大聖人は、

「悪法()(ひろ)まりて、人悪道(あくどう)()ち、国土(めっ)すべし」

(頼基陳状・御書1129㌻)

と説かれ、悪業(あくごう)による果報(かほう)として、

  1. 周囲しゅういの人々から軽蔑けいべつされる
  2. みにくい姿に生まれる
  3. 粗末そまつ衣服いふくものしかられない
  4. 財産ざいさんを求めて努力しても得られない
  5. まずしく下賤げせんの家やよこしまな家に生まれる
  6. 不慮ふりょ災難さいなんや事故に
  7. 人間としての苦しみを常に味わう

と教えられています。

このように日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩(くのう)の底につき()とす悪法であり、仏の真意(しんい)(そむ)(かり)のものであり、人々をたぶらかす不了義経なのです。まさに薬に()毒薬(どくやく)というべきでしょう。

釈尊は、

(ただ)虚妄(こもう)(はな)るるを()づけて解脱(げだつ)()す」

(譬喩品第三・開結173㌻)

と説いています。真実の幸福は、虚妄(こもう)(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依(きえ)することによって()られるのです。

5 なぜ日蓮正宗と他の宗教をいっしょに信仰してはいけないのか

信仰は、もっとも(すぐ)れた宗教を選び、誠実(せいじつ)な清らかな信心を(つらぬ)くことが大切です。

たとえば一本の牛乳に、一滴(いってき)の毒を()ぜたとしたら、いかに養分(ようぶん)があるからといっても、あなたはその牛乳を飲むことはできないでしょう。

これと同じように、正しい宗教とよこしまな宗教を混同(こんどう)して修行することは、せっかくの正しい信仰の功徳(くどく)を消し、苦しみを受ける結果になるのです。

釈尊は()(じゅう)()(ねん)()(けん)真実(しんじつ)と説いて、最後八ヶ年の法華経を説いた(のち)は、それ以前の経々(きょうぎょう)はすべて権教(ごんぎょう)(かり)の教え)であるから(もち)いてはならないことを明かされています。

ところが真言(しんごん)(しゅう)念仏(ねんぶつ)(しゅう)をはじめ、すべて他の宗派(しゅうは)は皆この四十余年の経に()っているのですから、これらの教えを法華経の真実の教えにまじえてはならないのです。

それは良薬(りょうやく)に毒を入れ、すべてを毒薬(どくやく)にしてしまうようなものだからです。

日蓮大聖人はこのことを、

「法華経を行ずる人の、一口(ひとくち)は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)なんど申すは、(はん)(ふん)(まじ)沙石(いさご)を入れたるが(ごと)し」

(秋元御書・御書1447㌻)

といましめられています。

大聖人の教えは、末法(まっぽう)のすべての人々を成仏(じょうぶつ)(みちび)唯一(ゆいいつ)大法(たいほう)であります。

この大法を信じながら、他の宗教を混じえることは同じように成仏の道を()ざすことになります。

また大聖人が、

(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法(ほうぼう)あらば必ず地獄(じごく)()つべし。うるし()ばい()(かに)の足一つ()れたらんが如し」

(曽谷殿御返事・御書1040㌻)

と説かれているように、いかに正法を(たも)っても、ほんの少しでも法に(そむ)くことがあれば、あたかも千ばいのうるしに一本の蟹の足を入れて、すべてのうるしの効用(こうよう)をなくしてしまうようなものであり、堕地獄(だじごく)のもとになるのです。

正しい仏法は、余事(よじ)()じえずに信仰しなければ、なんの功徳(くどく)もありません。

大聖人が、

()の南無妙法蓮華経に余事(よじ)まじ()へば、ゆゝしきひが()(ごと)なり」

(上野殿御返事・御書1219㌻)

(おお)せのように、成仏の大利益(だいりやく)は、日蓮正宗の仏法に余事(よじ)を混じえず、清浄(せいじょう)な心をもって信じ行ずるとき、はじめてもたらされるのです。

6 日蓮正宗では、なぜ神棚(かみだな)神札(かみふだ)をはずさせるのか

あなたが神棚や神札をはずすことに抵抗(ていこう)を感じるのは、それらに神の力がこもっており、その力によって守られると考えていることによるのでしょうが、それはまったく(ぎゃく)なのです。

大聖人は、

()(みな)(しょう)(そむ)き人(ことごと)く悪に()す。(ゆえ)善神(ぜんじん)国を()てゝ(あい)()り、聖人(しょうにん)(ところ)()して(かえ)らず。(ここ)(もっ)()()たり()来たり、(さい)()こり(なん)起こる」

(立正安国論・御書234㌻)

(おお)せです。

諸天(しょてん)善神(ぜんじん)は、妙法が広く流布(るふ)することによってそれを法味(ほうみ)として威力(いりょく)()し、民衆(みんしゅう)守護(しゅご)する力をましていくのです。

ところが、白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)末法(まっぽう)の世のなかにおいては、正法(しょうぼう)を信仰する者が少なく、正法に(そむ)いている者が多いために、諸天善神は法味(ほうみ)()えて、(やしろ)を捨てて天上(てんじょう)にのぼってしまっているのです。

したがって現在の神社には、悪鬼(あっき)魔神(まじん)()みついて災難(さいなん)をひきおこすのです。

ですからあなたの家の神棚にも、神札にも悪鬼が棲みついていますので、(おが)まなくてもそれがあることによって、あなたの生命はもちろんのこと、生活にも悪影響(あくえいきょう)(およ)ぼし、ひいては先祖(せんぞ)をも苦しめることになるのです。

法華経には、

()人信(ひとしん)ぜずして()(きょう)毀謗(きぼう)せば(すなわ)一切(いっさい)世間(せけん)仏種(ぶっしゅ)(だん)ぜん。(中略)()(ひと)命終(みょうじゅう)して阿鼻獄(あびごく)()らん」

(譬喩品第三・新編175㌻)

と説かれています。

末法においては、「此の経」とは、法華経の文底(もんてい)秘沈(ひちん)された三大(さんだい)秘法(ひほう)の南無妙法蓮華経のことです。

したがって日蓮正宗以外の宗派(しゅうは)の本尊や、神社の神札などの信仰の対象(たいしょう)ともなるものは、正法に(そむ)くものであり、人々を不幸に(おとしい)れる謗法(ほうぼう)根源(こんげん)なのですから、神棚や神札は(すみ)やかに()てることが肝要(かんよう)です。

7 もっとも正しい宗教とはなにか

もっとも正しい宗教としての条件(じょうけん)は、

第一に教主(きょうしゅ)宇宙(うちゅう)真理(しんり)と人間の生命の実相(じっそう)完璧(かんぺき)(さと)った方であること

第二に教義(きょうぎ)因果(いんが)道理(どうり)(もと)づいたもので、それが経典(きょうてん)として(あやま)りなく表記(ひょうき)されていること

第三に本尊(ほんぞん)全人類(ぜんじんるい)にとって尊崇(そんすう)(あたい)するものであり、現実(げんじつ)(そく)したものであること

第四に信仰修行の規範(きはん)普遍的(ふへんてき)社会的(しゃかいてき)人道的(じんどうてき)通念(つうねん)に反しないものであること

第五に信仰によって()られる利益(りやく)教説(きょうせつ)(かな)っており、表面的一時的なものでなく本質的(ほんしつてき)永続的(えいぞくてき)な利益であること

などを()げることができます。

第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達(かんたつ)し、適確(てきかく)に説き()くした教えは仏教に(まさ)るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒(しと)として絶対神(ぜったいしん)を説きましたが、彼らは神の啓示(けいじ)を受けたというだけで、過去(かこ)に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質(ほんしつ)立脚(りっきゃく)したものでなく、戒律(かいりつ)によって表面的な言動(げんどう)規制(きせい)し、奇跡(きせき)空想(くうそう)を説いているにすぎません。

その点仏教は教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)因行(いんぎょう)果徳(かとく)を明らかに教示(きょうじ)し、五十年間の説法を(とお)して宇宙の真理(しんり)と人間生命の実相をあらゆる点から完璧(かんぺき)に説き尽くしています。釈尊が成仏(じょうぶつ)した根本の一法とは、久遠(くおん)元初(がんじょ)というこの世の最初の時代に、我身(わがみ)がそのまま(だい)法界(ほうかい)の真理の当体(とうたい)なりと悟られた()(じゅ)(ゆう)(ほう)(しん)という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法(まっぽう)に日蓮大聖人として出現されたのです。

第二の教義の正当性(せいとうせい)経典(きょうてん)については、釈尊の説いた仏典(ぶってん)は数多く現存(げんぞん)し、その内容もすべて道理に(かな)ったものですが、その究極(きゅうきょく)が法華経です。この法華経の予言(よげん)(どお)りに末法の()本仏(ほんぶつ)として日蓮大聖人が出現され、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)を救うために(いのち)におよぶ迫害(はくがい)のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏(しょぶつ)成道(じょうどう)の根本原因の仏法であり、教義の面からも、功徳(くどく)の面からも釈尊の法華経より、はるかに(すぐ)れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大(ぼうだい)な量の御書(ごしょ)を書き(のこ)されています。

第三の本尊については、本尊とは、〝根本として尊崇(そんすう)すべきもの〟の意味で、少なくとも人間として(だれ)もが尊敬(そんけい)するに(あたい)するものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷(いなり))、ヘビ(竜神(りゅうじん))、ワニ(金毘羅(こんぴら))などの畜生(ちくしょう)(おが)むものや、先祖供養(せんぞくよう)に名を()りて亡者(もうじゃ)(れい)を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩(ぼさつ)天上(てんじょう)の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上(さいじょう)至尊(しそん)の本尊ではないのです。またいかに立派(りっぱ)な神や仏を立てても、それが架空(かくう)のものであったり、空想(くうそう)(じょう)のものであっては、貴重(きちょう)な人生を(たく)する本尊としてはきわめて(たよ)りなく、危険(きけん)なことというべきです。

久遠元初の仏である日蓮大聖人が、

「日蓮がたまし()ひをすみ()にそめながしてかきて(そうろう)ぞ、信じさせ(たま)へ」

(経王殿御返事・御書685㌻)

(おお)せられて、御身(おんみ)(そな)わる一切(いっさい)の悟りと大功徳(だいくどく)の力をそのまま図顕(ずけん)(あそ)ばされた本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の大御本尊こそもっとも(とうと)く勝れた御本尊なのです。

第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食(だんじき)をするもの、神札(かみふだ)(まも)(ふだ)()っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持(けんじ)しようとすると、さまざまな支障(ししょう)をきたしたり、非常識(ひじょうしき)行為(こうい)になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的(きょうじょうてき)に現実生活上の行動(こうどう)を規制するものではなく、日常生活の中で日々、御本尊を信じ礼拝(らいはい)唱題(しょうだい)することが基本(きほん)であり、誰でも支障(ししょう)なく信行に(はげ)むことができるのです。

第五の信仰による利益(りやく)については、大聖人が、

「道理証文(しょうもん)よりも現証(げんしょう)にはすぎず。」

(三三藏祈雨事・御書874㌻)

と仰せられるように、現証は宗教を判定(はんてい)するうえでもっとも大切なことです。

さらに大聖人は、「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天(だいぼんてん)帝釈(たいしゃく)日月(にちがつ)四天(してん)(とう)(ちゅう)()守護(しゅご)すべし」

(諌暁八幡抄・御書1543㌻)

とも、

「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる(たね)には候へ」

(九郎太郎殿御返事・御書1293㌻)

とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天(しょてん)善神(ぜんじん)に守護され、未来(みらい)永劫(えいごう)にくずれることのない仏の境界(きょうがい)(きず)くことができるのです。

現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的(ひやくてき)増加(ぞうか)し、歓喜(かんき)にみちて仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)邁進(まいしん)しています。

日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。

8 なぜ日蓮正宗だけが正しいといえるのか

「正とは一に(とど)まる」という言葉(ことば)がありますが、正しい教法(きょうぼう)が二つも三つもあるわけがありません。これについて、釈尊は、

十方(じっぽう)佛土(ぶつど)(なか)には、唯一乗(ただいちじょう)(ほう)のみ()り、二無(にな)(また)三無(さんな)し」

(方便品第二・開結110㌻)

と説き、日蓮大聖人は、

「今、末法(まっぽう)に入りぬれば余経(よきょう)も法華経もせん()なし。(ただ)南無妙法蓮華経なるべし」

(上野殿御返事・御書1219㌻)

(おお)せられています。

日蓮正宗がもっとも正しい宗旨(しゅうし)である理由は、法華経の予証(よしょう)どおりに末法に出現された()本仏(ほんぶつ)日蓮大聖人の教えを、七百年間にわたって現在まで清浄(せいじょう)(あやま)りなく受けついできた唯一(ゆいいつ)教団(きょうだん)であるから、といえましょう。

鎌倉時代に出現(しゅつげん)された日蓮大聖人は、末法万年にわたって人々を苦悩(くのう)(やみ)から救済(きゅうさい)するために、数々(かずかず)大難(だいなん)()いながら、南無妙法蓮華経を説き(あら)わされました。そして南無妙法蓮華経の法体(ほったい)として一閻(いちえん)()(だい)総与(そうよ)(全世界のすべての人々に与えるという意味)の(だい)(まん)()()()本尊(ほんぞん)図顕(ずけん)建立(こんりゅう)されたのです。この御本尊は日蓮大聖人の当体(とうたい)でもあり、久遠(くおん)元初(がんじょ)()(じゅ)用身(ゆうしん)という宇宙(うちゅう)法界(ほうかい)根本(こんぽん)真理(しんり)の当体でもあります。

大聖人は、

(そもそも)当世(とうせい)の人々(いず)れの宗々にか本門(ほんもん)本尊(ほんぞん)戒壇(かいだん)(とう)弘通(ぐづう)せる。仏滅後(ぶつめつご)二千二百二十余年に一人も(そうら)はず」

(教行証御書・御書1110㌻)

と、大聖人ただ一人末法(まっぽう)の仏として仏勅(ぶっちょく)によって出現され、三大(さんだい)秘法(ひほう)大法(だいほう)を広めることを明かされています。

三大秘法とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇をいいますが、本門の題目とは大聖人が建立遊ばされた一閻浮提総与の大御本尊に向かって唱える題目のことであり、本門の戒壇とは、この大御本尊が安置(あんち)され、しかも一切の人々が修行する場所をいいます。

したがって三大秘法のなかには「本門の本尊」が中心であり、本門の本尊なくしては題目も戒壇も存在(そんざい)しないのです。このゆえに本門の本尊を「三大秘法総在(そうざい)の御本尊」とも尊称(そんしょう)します。

日蓮大聖人は入滅(にゅうめつ)先立(さきだ)って、門弟(もんてい)のなかから日興(にっこう)上人(しょうにん)を選んで、本門戒壇の大御本尊をはじめとする法門(ほうもん)のすべてを相承(そうじょう)付嘱(ふぞく)されました。

大聖人の精神(せいしん)法義(ほうぎ)(かた)く守られた日興上人は、時あたかも地頭(じとう)不法(ふほう)によって謗法(ほうぼう)の地になりつつあった身延(みのぶ)の地を去る決意(けつい)をされ、大聖人が生前(せいぜん)より、

霊山浄(りょうぜんじょう)()()たらん最勝(さいしょう)の地を(たず)ねて戒壇を建立すべき者か。時を()つべきのみ」

(三大秘法稟承事・御書1595㌻)

国主(こくしゅ)()の法を立てらるれば、富士山に本門(ほんもん)()戒壇(かいだん)建立(こんりゅう)せらるべきなり」

(日蓮一期弘法付嘱書・御書1675㌻)

遺命(ゆいめい)されていたとおり、日本第一の名山(めいざん)富士山の(ふもと)に一切の重宝(じゅうほう)捧持(ほうじ)して弟子たちと(とも)に移られ、そこに大石寺(たいせきじ)を建立されたのです。

その後、大聖人の仏法は第三祖日目(にちもく)上人(しょうにん)、第四世日道(にちどう)上人(しょうにん)と、一器(いっき)の水を一器に移すように代々の法主(ほっす)上人(しょうにん)によって受けつがれ厳護(げんご)されて、現在()当代(とうだい)上人(しょうにん)に正しく伝えられているのです。この(かん)宗門(しゅうもん)()は、また正法厳護(げんご)のための(とうと)苦難(くなん)の歴史でもありました。

いま私たちが総本山大石寺に参詣(さんけい)し、一閻浮提総与の大御本尊を(はい)するとき、

須弥山(しゅみせん)に近づく鳥は金色(こんじき)となるなり」

(本尊供養御書・御書1054㌻)

金言(きんげん)どおり、私たちの生命の奥底(おうてい)は仏の威光(いこう)に照らされて金色に(かがや)き、即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)の姿になっているのです。

現在、国の内外(ないがい)()わず、大御本尊の広大(こうだい)功徳(くどく)によって苦悩を希望(きぼう)に転じ、福徳(ふくとく)()ちて信心に(はげ)む多くの人々の姿が、日蓮正宗の正しさを物語(ものがた)っているといえましょう。

9 日蓮正宗がそんなによい宗旨(しゅうし)なら、なぜ社会の人から広く受け入れられないのか

質問の内容はいろいろな意味に解釈(かいしゃく)できます。具体的(ぐたいてき)にいえば、

「そんなによい宗旨なら」

一、もっと昔から広まっていたはずだ

二、もっと(おお)ぜいの人が信仰(しんこう)するはずだ

三、もっと学識者(がくしきしゃ)著名人(ちょめいじん)に受け入れられるはずだ

四、もっと短期間に広まるはずだ

などの意味を(ふく)んでいるように思われます。

いま、これらの疑問に対して、まとめて説明しましょう。

釈尊は法華経に、

()法華(ほけ)(きょう)(もっと)()難信(なんしん)難解(なんげ)なり」

(法師品第十・開結325㌻)

と説き、法華経は(ずい)自意(じい)といって衆生(しゅじょう)機根(きこん)にかかわりなく、仏が(さと)った法をそのまま説かれたもので、(きょう)()深遠(しんえん)なために難信難解であり、さらに正法を信ずる時は必ず大難(だいなん)障害(しょうがい)()こるために難信難解なのであると(おお)せられています。

とくに末法(まっぽう)は衆生の機根も邪悪(じゃあく)な時代であり、出現(しゅつげん)される仏も弘通(ぐづう)される教法(きょうぼう)もより鮮明(せんめい)()(じゃ)顕正(けんしょう)(むね)とするものであるから、迫害(はくがい)誹謗(ひぼう)身命(しんみょう)(およ)ぶものとなり、()(きょう)困難(こんなん)をきわめるであろうと、釈尊は予言(よげん)されました。

釈尊の予言どおり、末法の()本仏(ほんぶつ)日蓮大聖人の生涯(しょうがい)は、立正安国と衆生(しゅじょう)済度(さいど)(だい)慈悲(じひ)(つらぬ)かれ、同時にまた邪悪な大難(だいなん)(しょう)()との(たたか)いの連続(れんぞく)でもありました。

日蓮正宗は日蓮大聖人の教えのままに、法の正邪(せいじゃ)峻別(しゅんべつ)する折伏(しゃくぶく)(しゅう)()であり、個々(ここ)の人間に活力(かつりょく)(あた)え、現実生活の向上(こうじょう)を説く宗教であるため、封建(ほうけん)主義(しゅぎ)の時代には、民衆(みんしゅう)抑圧(よくあつ)して体制(たいせい)維持(いじ)(はか)為政者(いせいしゃ)から弾圧(だんあつ)されたのです。

したがって日蓮正宗の本格的(ほんかくてき)()(きょう)は、信教の自由・布教の自由が認められたのちといっても過言(かごん)ではありません。

折伏弘教が進むにつれて、その反動(はんどう)としての中傷(ちゅうしょう)妨害(ぼうがい)もさまざまに()こりました。なかには、せっかく日蓮正宗の話を聞いても、「日蓮正宗は新興(しんこう)宗教だ」「葬式(そうしき)香典(こうでん)を全部()()ってしまう」「病人と貧乏人(びんぼうにん)の集まりだ」などの悪質(あくしつ)なデマに(まど)わされたり、世間(せけん)の目を気にして入信できなかった人も多くいたのです。

現在でも、正邪をはっきりさせることに抵抗(ていこう)を感じる人や、信仰するよりは遊んでいた方が楽しいという人、朝夕(あさゆう)勤行(ごんぎょう)と聞いて(しり)ごみする人など、入信できない人も(おお)ぜいいるようです。

そのようななかで、人生を真摯(しんし)に考え、先祖(せんぞ)からの宗教を(あらた)めて日蓮正宗に帰依(きえ)することは実に勇気(ゆうき)のいることであり、至難(しなん)(わざ)なのです。それにも(かかわ)らず、日蓮正宗の信徒は、現在、日本国内のみならず全世界に広く活躍(かつやく)しています。

さまざまな障害(しょうがい)のなかで、このように発展(はってん)したのは、正宗(しょうしゅう)僧俗(そうぞく)の折伏弘教の努力によることはいうまでもありませんが、何よりも日蓮正宗の仏法が正統(せいとう)であり、御本尊に偉大(いだい)功徳力(くどくりき)厳然(げんぜん)とましますからにほかなりません。

世間(せけん)には学識者や有力者(ゆうりょくしゃ)著名人(ちょめいじん)といわれる人がおりますが、このなかには日蓮正宗の信仰をしている人もいれば、この宗教にはまったく無知(むち)な人、()(ひょう)保身(ほしん)を気にして信仰できない人などさまざまです。ですから学識者や著名人が信仰するしないによって宗教の必要性や正邪を判断(はんだん)することはあまり意味のないことです。

また〝なぜ短期間に広まらないのか〟という点ですが、日蓮大聖人の仏法に大利益(だいりやく)があるからといって、一年や二年で願いごとがすべて(かな)うというわけにはいきません。

なぜなら私たちには過去世(かこせ)からの種々の宿業(しゅくごう)があり、花も時がこなければ咲かないように、信仰の功徳が開花(かいか)する時期は人によって(こと)なるのです。また賢明(けんめい)な親は子供の()しがる物を言いなりに買い与えないと同じように、目先(めさき)願望(がんぼう)を叶えるだけが仏様の慈悲(じひ)ではありません。いかなる時でも、正法を堅持(けんじ)し生命力を発揮(はっき)して人生を悠々(ゆうゆう)(あゆ)む人間に転換(てんかん)されていくところに正法の真実の利益があるのです。したがって信仰の利益は、他人の目から見て容易(ようい)に判断できるものではありません。

しかし信仰によって御本尊の功徳を実感(じっかん)し、体験(たいけん)した人々の(よろこ)びと確信(かくしん)が、現在多くの人々を正法に(みちび)き、真実の幸福への人生を歩ませているのです。難信難解の正法を語り、その功徳の素晴(すば)らしさを伝えていくためには、着実(ちゃくじつ)な努力と時間の積み重ねが必要なことはいうまでもありません。

あなたが、もし本当に〝日蓮正宗は社会に広く受け入れられていない〟と思い込んでいるならば、それは()認識(にんしき)による誤解(ごかい)であり、さもなければ偏見(へんけん)というべきです。

また〝もっと大ぜいの人が信仰しなければ、自分は信仰する気にならない〟という意図(いと)冒頭(ぼうとう)の質問をされるならば、それはあたかも〝もう少し大ぜいの人が法律(ほうりつ)を守らなければ、自分も法律を守る気がしない〟ということと同じで、良識(りょうしき)ある大人(おとな)のいうことではありません。

他人がどうあろうと、周囲(しゅうい)にどう評価(ひょうか)されようと、正しい道を知ったならば、確信をもって自ら邁進(まいしん)する人こそ、真に勇気ある人であり、聡明(そうめい)な人というべきでしょう。

10 日蓮正宗の信仰をすると、どのような利益(りやく)があるのか

法華経に、

如来(にょらい)知見(ちけん)広大(こうだい)深遠(じんのん)なり」

(方便品第二・開結189㌻)

と説かれているように、仏の知見と功徳(くどく)のすべてを書き(しる)すことはとうてい不可能(ふかのう)なことですが、経文と御書のなかから(おも)(きょう)()()げてみましょう。

まず分別(ふんべつ)功徳(くどく)(ほん)には、

「釈尊の滅後(めつご)()の経(法華経すなわち南無妙法蓮華経)を()(ぎょう)ずる者は

①本尊を安置あんちする塔寺とうじ建立こんりゅう

僧坊そうぼうなどの修行者の道場どうじょうを建立寄進きしんする境遇きょうぐうになる

正法しょうぼうを修行する人に対して深くうやま供養くようする

④仏法を正しく理解りかいして他の人に法を説くことができる

⑤行動や言葉ことばが正しく清らかになる

⑥正法の善友ぜんゆうにめぐまれる

忍耐にんたいの心が強くなりいかりがなくなる

意志いし信念しんねんかたくなり、周囲しゅうい悪法あくほう紛動ふんどうされなくなる

⑨心が落着おちつき、考えが深くなる

何物なにものにもおそれず善行ぜんぎょうをたゆまず積み重ねる

⑪多くのい教えや知識ちしきを正しくかすことができる

感覚かんかく鋭利えいりとなり、頭脳ずのう明晰めいせきに、智慧ちえは深くなる

難問なんもん解決かいけつする力がそなわる」

(開結459㌻四五九取意)

と説かれています。

また随喜(ずいき)功徳(くどく)(ほん)には、

「正法を聞く功徳について、

一、正法を説く寺院にもうで、あるいはすわり、あるいは立って、の経をわずかなあいだでも聴聞ちょうもんする功徳は、来生らいしょうには最上さいじょう宝車ほうしゃ天人てんにん宮殿きゅうでんに生まれる。

二、正法をこうずるところに行き、座して聞き、他人に座をかちあたえる功徳は、来生は仏法守護しゅご統領とうりょうである帝釈天たいしゃくてんの座に、また、裟婆世界しゃばせかいの主である大梵天だいぼんてんの座に生まれる。あるいは人間世界の最高統治者とうじしゃである転輪てんりん聖王じょうおうの座に生まれる。

三、他人にすすめてともに法華経を聞く功徳は、来生は聡明そうめいで智慧が深く、健康けんこう身心しんしんととのった美しい容姿ようしをもって生まれ、世世せせに仏に福徳ふくとくを増すようになる」

(開結468㌻取意)

と説かれています。

また日蓮大聖人は経王(きょうおう)殿(どの)()(へん)()に、

「この御本尊を信ずる者は、

病魔びょうま障害しょうがいおかされない

諸天しょてん善神ぜんじんに守護される

③福徳が増して幸福になる

④どんな場合でもおそれることがなくなる

⑤自由自在の境遇きょうぐうになる」

(御書685㌻取意)

と説き、『当体(とうたい)()(しょう)』には、

正直(しょうじき)な心で南無妙法蓮華経と唱える人は、

不幸ふこう根源こんげんである悪心あくしん煩悩ぼんのう)が、そのまま仏のような清浄せいじょうな生命(法身ほっしん)にてんずる

②悪い行為こういごう)は、正しい判断はんだんりょくそなえ、仏のような智慧(般若はんにゃ)に転ずる

③苦しみやなやみ悲しみは、希望きぼうにみちた自在じざい境界きょうがい解脱げだつ)に転ずる」

(御書694㌻取意)

(おお)せられています。

総本山大石寺第二十六世日寛(にちかん)上人(しょうにん)も、

「この本尊の功徳、()(りょう)()(へん)にして広大(こうだい)深遠(じんのん)妙用(みょうゆう)あり。(ゆえ)(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、(すなわ)(いの)りとして(かな)わざるなく、(つみ)として(めっ)せざるなく、(ふく)として()たらざるなく、()として(あらわ)れざるなきなり」

(観心本尊抄文段・歴全5-266㌻)

と教えられています。

大御本尊の功徳は、即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)境界(きょうがい)(きわ)まるのですが、そのためには、(みずか)ら信心を(ふる)()こし、正しい指導(しどう)のもとに修行しなければならないのです。

11 日蓮正宗の信仰には、なぜ利益(りやく)があるのか

天台(てんだい)大師(だいし)は、利益(りやく)功徳(くどく)について、

厳密(げんみつ)にいえば、功徳とは(みずか)()むものであり、利益とは他から(あた)えられるものという(ちが)いはあるが、仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)による得益(とくやく)(すがた)からいえば、その意義は同一である」

(法華玄義巻六取意)

といわれています。

したがって、ふつうは利益のことを功徳といってもさしつかえありません。

妙楽(みょうらく)大師(だいし)弘決(ぐけつ)には、

仮使(たとい)発心(ほっしん)真実(しんじつ)ならざる者も正境(しょうきょう)(えん)すれば功徳(くどく)(なお)多し」

といわれるように、日蓮大聖人が(あら)わされた一閻(いちえん)()(だい)総与(そうよ)(だい)()本尊(ほんぞん)には、仏様が一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(すく)仏力(ぶつりき)と、あらゆる(わざわ)いを(のぞ)いて人々を幸福に(みちび)法力(ほうりき)厳然(げんぜん)(おさ)められておりますので、これに(えん)する者は大きな功徳を積むことができるのです。

御本尊を(はい)しますと(ひだり)(おん)かたに「有供(うく)養者(ようしゃ)(ふく)()十号(じゅうごう)」としたためられています。

十号(じゅうごう)とは、仏様の尊称(そんしょう)で、如来(にょらい)応供(おうぐ)(しょう)(へん)()明行(みょうぎょう)(そく)善逝(ぜんぜい)世間解(せけんげ)無上士(むじょうし)調(ちょう)()(じょう)()天人(てんにん)()仏世尊(ぶつせそん)のことですが、これについて大聖人は、

末代(まつだい)の法華経の行者を()供養(くよう)せん功徳は、()三業(さんごう)相応(そうおう)の信心にて、一劫(いっこう)(あいだ)生身(しょうしん)の仏を供養し奉るには、百千万(ひゃくせんまん)(のく)(ばい)すぐべしと説き給ひて(そうろう)。これを妙楽(みょうらく)大師(だいし)福過(ふくか)十号(じゅうごう)とは()かれて候なり」

(法蓮抄・御書813㌻)

(おお)せられ、法華経の行者日蓮大聖人の当体(とうたい)である御本尊を信仰し供養する者の功徳は、仏典(ぶってん)に説き示されている生身(しょうしん)の仏を長い間供養するよりも百千万億倍勝れ、その無量の智慧(ちえ)福徳(ふくとく)は仏の十号にもまさると説かれています。

したがって仏力(ぶつりき)法力(ほうりき)の功徳は、他から安易(あんい)(あた)えられるものではなく、御本尊に対する信力(しんりき)行力(ぎょうりき)(みが)くことによって、はじめて積むことができるのです。

ふつう〝ご利益〟というと、お金が(もう)かったり、病気が(なお)ったり、願いごとが(かな)うなどの目前(もくぜん)現証(げんしょう)だけを考えがちです。このような今世(こんぜ)の利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、過去(かこ)現在(げんざい)未来(みらい)三世(さんぜ)にわたって永遠(えいえん)不滅(ふめつ)なるがゆえに過去世(かこせ)罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)し、今世のみならず未来(みらい)永劫(えいごう)にわたって清浄(しょうじょう)な幸福境界(きょうがい)確立(かくりつ)することが真実の利益であると教えられています。

日蓮大聖人は功徳について、

「功徳とは六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)果報(かほう)なり。(中略)(あく)(めっ)するを()()ひ、(ぜん)(しょう)ずるを(とく)と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)なり」

(御義口伝・御書1775㌻)

と仰せです。六根とは、眼根(げんこん)耳根(にこん)鼻根(びこん)舌根(ぜっこん)身根(しんこん)意根(いこん)の生命の識別(しきべつ)作用(さよう)器官(きかん)をいい、それが清浄(しょうじょう)になるとは、六根に(そな)わる煩悩(ぼんのう)のけがれが(はら)い落とされて(きよ)らかになり、ものごとを正しく判断(はんだん)できる英知(えいち)が生まれることなのです。

したがって正しい御本尊を信ずるとき、煩悩(ぼんのう)はそのまま仏果(ぶっか)証得(しょうとく)する智慧となり、生命に内在(ないざい)する仏性(ぶっしょう)はいきいきと発動(はつどう)し、迷いの人生は希望に()ちた楽しい人生に転換(てんかん)されていくのです。

これを即身成仏の境界(きょうがい)というのです。

正しい信仰を知らない人は、この六根が()(みょう)の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない(あやま)ちを(おか)すことが多いのです。

このように日蓮正宗の信仰は、人間の生命を根本から(じょう)()し、英知(えいち)と福徳を(そな)えた幸福な人生を(きず)くものですが、その利益は個個(ここ)の人間に(とど)まるものではありません。

大聖人は()(しょう)不二(ふに)という法門(ほうもん)を説かれています。()とは、私たちが生活するこの国土をいい、(しょう)とは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのまま()(じょう)国土(こくど)世界(せかい)反映(はんえい)するという〝不二〟の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害(さいがい)戦乱(せんらん)飢餓(きが)根本的(こんぽんてき)に解決し、悠久(ゆうきゅう)の平和社会を実現(じつげん)するためには、正報(しょうほう)である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。

私たちが三世(さんぜ)にわたって即身成仏の境界を(きず)き、しかも国土を平和社会に変える方途(ほうと)は、日蓮正宗総本山大石寺に厳護(げんご)される本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の大御本尊を純真(じゅんしん)に拝し、弘宣(ぐせん)していく以外にはないのです。