1 神仏を礼拝(らいはい)することが尊いのであるから、何宗(なにしゅう)でもよいのではないか

宗教に(かぎ)らず、人間にとって(うやま)い、信ずるということは大切なことです。日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、()(もの)はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。

では反対になんでも()節操(せっそう)に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に(たず)ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく(みちび)いてくれるものを信用したときには、所期(しょき)の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満(ふまん)や不幸を感ずるのです。

質問のように、神仏を信ずる心が(とうと)い、神仏を礼拝(らいはい)する姿が美しい、だから何宗(なにしゅう)でもよいというのは、詐欺師(さぎし)の言葉でもそれを信ずることが(とうと)く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。

私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。ちょうど透明(とうめい)な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。「(しゅ)(まじ)われば赤くなる」という言葉も、周囲の(えん)によって感応(かんのう)する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。信仰は〝信ずること〟であり、〝礼拝すること〟なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や(むく)いは、人生に大きな影響(えいきょう)を与えることになります。

いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象(たいしょう)たる本尊に衆生(しゅじょう)の生命が強く感化(かんか)されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈(きょうれつ)に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣(ていれつ)な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応(かんのう)して、次第にその人は(にご)った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。たとえば「稻荷(いなり)」と(しょう)してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界(ちくしょうかい)の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで()てきます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落(けつらく)し、人間失格の人生に変わってゆくのです。もし架空(かくう)の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間も、人生も、生活も(みの)りのない()き草のようなものになってしまいます。

せっかく信仰心に目覚(めざ)めたのですから、理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明す宗教に帰依(きえ)すべきでありましょう。

2 宗派は分かれているが、到達(とうたつ)する目的はおなじではないか

宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよいのだ、と主張する人の中には、「()(のぼ)(ふもと)の道は多けれど同じ雲井(くもい)の月をこそ見れ」という歌を引き合いに出すことがあります。しかし、これはあくまでもひとつの古歌(こか)であって、実際は同じ麓の道でもひとつは他の(みね)に至るもの、別な道は山ではなく池に至る道かもしれません。なかには命を落とすような危険な谷に通じている道であるかもしれません。ですから歌やことわざにあるからといって、それを(しょう)()に宗教を論ずることはできません。

今、(かく)宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく(こと)なっています。

キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依(きえ)が説かれ、コーランを所依(しょえ)の教典としています。儒教(じゅきょう)孔子(こうし)によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世(さんぜ)因果律(いんがりつ)という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済(きゅうさい)を説かれたものです。しかも同じ仏教の中でも、(しょう)(じょう)(きょう)劣応身(れっとうじん)という仏を教主として戒律(かいりつ)を説き、一切の煩悩(ぼんのう)を断じ(つく)した阿羅漢(あらかん)という聖者(せいじゃ)になることを目的としています。これに対して(だい)(じょう)(きょう)の中でも、華厳(けごん)(きょう)を所依とする華厳宗、方等(ほうどう)()から発した真言宗、淨土宗、禅宗など、般若(はんにゃ)()の教理をもとにした三論(さんろん)(しゅう)など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて(こと)なっているのです。

まして「(ゆい)()(いち)(ぶつ)(じょう)」といわれる法華経は今までの四十二年間の教えとは比較(ひかく)にならない深遠(しんえん)な教理と偉大な仏の利益(りやく)、そして真実の仏身(ぶっしん)が説き(あら)わされたものです。その目的も、今までの経教(きょうぎょう)では、三乗(さんじょう)すなわち声聞(しょうもん)を目的とする者、縁覚(えんがく)を目的とする者、菩薩(ぼさつ)になることを目指(めざ)す者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別々に説いていたのですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便であり()りのものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊(みずか)らが(いまし)められ、一仏(いちぶつ)(じょう)すなわちすべての人が仏の境界(きょうがい)に至ることこそ真実の目的であると教示されました。

このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異なっているのです。もしあなたが〝宗教〟という大きな意味で、目的が〝救済〟ということだから、どれでも同じだというならば、それはあまりに大雑把(おおざっぱ)な考え方だというべきでしょう。それはあたかも〝学校〟はどこも〝教育〟を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ(かよ)っても同じだということと同じです。宗教の選択(せんたく)が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任で粗雑(そざつ)な判断は(とう)()たものでないことがわかると思います。

3 どんな宗教にもよい教えが説かれていると思うが

これについて二点から考えてみましょう。

その第一は、教義の()()しとは(なに)によって決められるかということであり、第二には宗教とは観念的(かんねんてき)な理論のみではなく、実践(じっせん)がともなうものであるということです。

まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地(けんち)に立てば、人殺しや盗みを奨励(しょうれい)する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。

しかし、宗教は個人の身体(しんたい)と精神を(ふく)む全人格が()(みょう)し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的(たいきょくてき)な教えの相違は、信ずる人間性に対して敏感(びんかん)影響(えいきょう)します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生(そせい)させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。

日蓮大聖人は、

所詮(しょせん)成仏(じょうぶつ)大綱(たいこう)を法華に(これ)を説き、()の余の網目(もうもく)衆典(しゅうてん)に明かす。法華の為の網目なるが故に」

(観心本尊得意抄・御書915㌻)

(おお)せられ、法華経という大綱があって、はじめて法華経以前に説かれた諸々(もろもろ)の教えが生かされると説かれています。

仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教(じゅきょう)神道(しんとう)、なども一見すると人倫(じんりん)の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世(さんぜ)にわたる生命論や、人間が具有(ぐゆう)する十界三千の実相(じっそう)が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と(くら)べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、

無量義(むりょうぎ)とは一法(いっぽう)より(しょう)ず」

(無量義経・開結19㌻)

ともいわれますように、唯一(ゆいいつ)無二(むに)の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益(りやく)のすべてがはじめて生きてくるのです。

この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。

次に宗教には必ず実践(じっせん)がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、なんの役にも立ちません。

その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主(きょうしゅ)が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、(しょう)(ぼう)(しょう)()を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性(しんぴょうせい)のある宗教といえるのです。

たとえば新興宗教のなかにモラロジー(最高道徳)という宗教がありますが、その教義は〝釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する〟というものです。しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律(かいりつ)の実践を説く教えもあれば六度(ろくど)の修行(布施(ふせ)持戒(じかい)忍辱(にんにく)精進(しょうじん)禅定(ぜんじょう)智慧(ちえ))もあり、()信得入(しんとくにゅう)すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説いています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り()てたりするのでしょうか。

これを(くつ)にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適(さいてき)であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時はだれでも、はだしになるわけです。

これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人(きょうじん)と笑われるでしょう。

このモラロジーという宗教が(おか)している誤りのひとつは、大綱(たいこう)網目(もうもく)の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪(ぜんあく)との判断がつけられず、()節操(せっそう)にどれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証(れいしょう)もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけることにあります。一見するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討(けんとう)するならば、低級宗教や、邪悪(じゃあく)な宗教であると気がつくでしょう。

4 どんな宗教にも、それなりの利益(りやく)があるのではないか

すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分(いちぶん)の利益というべき結果が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相(ようそう)()利益(りやく)のように感じられるのでしょう。しかし、人間の生命には一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在(せんざい)しており、それが(えん)にふれて様々(さまざま)な作用をするわけですから、周囲の状態((えん))を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心を(しず)めて(なに)かを(おが)み祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転(こうてん)することも不思議なことではありません。

また、祈祷師(きとうし)(うらな)()などのように利根(りこん)通力(つうりき)という一種の超能力(ちょうのうりょく)をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を(うらな)い、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的(せんざいてき)可能性の一分が(あら)われたものであり、あっても不思議ではありません。

しかし日蓮大聖人は、

利根(りこん)通力(つうりき)とにはよるべからず。」

(唱法華題目抄・御書233㌻)

と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界(きょうがい)に至ることであり、このような超能力によってはいけないと(いまし)めています。

ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先(めさき)(きゅう)()しのぎによって()られるものではなく、()(ちゅう)法界(ほうかい)(さと)った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。すなわち本仏の慈悲によって仏天(ぶってん)加護(かご)を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を(そな)え、清浄(せいじょう)にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。

たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と不幸に至る(よこしま)な道があるとします。正しい道は向上(こうじょう)するものですから、(けわ)しい坂道や困難な(かべ)にぶつかることもありましょう。反対に邪な道は下降(かこう)する道ですから、快適(かいてき)な下り坂があり途中には美しい花が咲いているかもしれません。しかし一輪の花や下り坂に()せられて不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師(さぎし)がはじめに正直者(しょうじきもの)(よそお)い、おいしい(えさ)を相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依(きえ)することを(さまた)げようとする()の働きなのです。

一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠(しょうこ)がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を(あゆ)むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。

5 仏教はすべて釈尊(しゃくそん)から出ているのだから、どれを信じてもおなじではないか

今から三千年前にインド北部のカピラ城の王子として誕生(たんじょう)した釈尊は、十九歳のとき修行者となり、三十歳の時にガヤ城の近くで(さと)りを開きました。その後八十歳で入滅するまで五十年の間、人々に悟りの法を教えるためにさまざまな教えを説きました。

中国の天台大師は、釈尊の五十年間の説法を深く検討(けんとう)して、その内容から説法の時期を五つに区分しました。これが「五時(ごじ)」といわれるものです。また「八教(はっきょう)」という区分けもしていますが、ここでは「五時」によって説明しましょう。第一は華厳時(けごんじ)といって、釈尊は開悟(かいご)(のち)(ただ)ちに二十一日間にわたって哲学的な十玄(じゅうげん)六相(ろくそう)などの教理を説きましたが、聴衆(ちょうしゅう)はまったく理解できませんでした。第二は阿含時(あごんじ)といって戒律(かいりつ)を中心とした教えを十二年間説きました。これは三蔵(さんぞう)(きょう)あるいは(しょう)(じょう)(きょう)といわれ、仏教の中でもっとも低い教義です。第三は方等時(ほうどうじ)といって(はば)広い内容の教えを十六年間説きました。これは弾訶(だんか)といって小乗教に執着(しゅうちゃく)する人を叱責(しっせき)し、大乗教(だいじょうきょう)すなわち自分のみでなく他人をも内面から救う教えに()(にゅう)させるものです。第四は般若時(はんにゃじ)といって十四年間、(くう)すなわちこの世のものは(なに)ひとつとして(さだ)まった実体(じったい)などなく、執着(しゅうちゃく)すべきものはないという教えを説きました。この般若と第一華厳・第三方等は大乗教ですが、いまだ釈尊が久遠(くおん)の仏であることを明さず、人生の目的は三乗(さんじょう)声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)菩薩(ぼさつ))にあるとして、真実を示さない()りの教えでした。釈尊は第五時の法華経を説法するために、まず()(りょう)()(きょう)を説きましたがその中で、

〝仏の(まなこ)をもって衆生の根性(こんじょう)を見るに、人々は種々様々(さまざま)(こころ)()だったので、まずそれを調(ととの)えるために種々の方便の力を(もち)いたり、仮りの法を説いたのである〟

と説明し、

()(じゅう)()(ねん)には(いま)真実(しんじつ)(あらわ)さず」

(無量義経・開結23㌻)

と説いています。そして法華経八年間の説法で、はじめて真実の教えとして、いかなる人もその身のままで仏の境界(きょうがい)に至る一仏乗の法を説きあらわしたのです。

現在、東大寺(とうだいじ)を本山とする華厳宗は第一華厳時の教義を所依(しょえ)とし、タイやビルマなどに残っている戒律仏教や、律宗(りっしゅう)などは第二阿含時の経典を教義としています。また浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗などは第三方等時の経典からそれぞれ宗義を立てており、天台宗や日蓮宗各派のように法華経を依経(えきょう)としていても迹門(しゃくもん)観念的(かんねんてき)教理を中心としているなど、いずれの宗派も、末法現時に適した究極(きゅうきょく)の教えである法華経本門の法を()(きょう)としていません。法華経本門の教えとは、釈尊が久遠の(むかし)に成仏するために修行した根本の原因となる一法であり、それは日蓮大聖人が唱えあらわされた南無妙法蓮華経に()きるのです。

このように同じ仏教といっても、教義の内容や目的、そして修行もまったく違うのですから仏の本意に(もと)づく真実の教えに帰依(きえ)しなくてはなりません。

6 先祖を崇拝(すうはい)することがまちがっているのか

先祖を(うやま)い、(あが)めることは、仏法の教義に(てら)して、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派(りっぱ)行為(こうい)といえます。

しかし先祖を神として(まつ)ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝(らいはい)対象(たいしょう)とすることは(あやま)りです。なぜならば先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだり(なや)んだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁(あくえん)によれば苦を感じ、善縁(ぜんえん)すなわち正法によれば安楽(あんらく)果報(かほう)を受ける凡夫(ぼんぷ)であることに変わりがないからなのです。言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが()られるわけではありませんし、子孫(しそん)を守ったり苦悩(くのう)から救ったりできるわけでもないということです。

世間では先祖や故人(こじん)を「(ほとけ)」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見て正しい用法(ようほう)ではありません。

仏とは仏陀(ぶっだ)とも如来(にょらい)ともいい、この世の一切の真実の(すがた)と真理を一分のくもりもなく(さと)(きわ)めた覚者(かくしゃ)という意味です。仏教の経典には()()()(ぶつ)薬師仏(やくしぶつ)大日(だいにち)如来(にょらい)などたくさんの仏が説かれておりますが、これらの仏について、法華経には、

()(だい)(じょう)(きょう)(でん)諸仏(しょぶつ)宝蔵(ほうぞう)なり。十方(じっぽう)三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)眼目(げんもく)なり。三世(さんぜ)(もろもろ)如来(にょらい)(しゅっ)(しょう)する(たね)なり」

(観普賢経・開結624㌻)

と説かれ、日蓮大聖人も、

「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を(もっ)て仏に()り給ひしなり」

(法華初心成仏抄・御書1321㌻)

とのべられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる妙法蓮華経という本法(ほんぽう)を種として仏となることができたのです。

この原理は私たちや先祖が(なに)によって(しん)に救われるかをはっきり示しています。

すなわち本当に先祖を敬い、先祖の(おん)(むく)いる気持ちがあるならば、生者死者をともに根本から成仏せしめる本仏本法に(したが)って正しく回向(えこう)供養しなければなりません。

また先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄(はんえい)と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。急病の子供を背負(せお)って医者を探し求めたこともあったでしょうし、妻子を助けるために我が身を犠牲(ぎせい)にされた方もいたことと思います。このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、(みずか)らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教を(あらた)めたことを悲しむどころか、「宿願(しゅくがん)ここに()れり」と大いに喜ぶはずです。

先祖を敬うという尊い真心(まごころ)を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌(いはい)(おが)むことではなく、三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)本種(ほんしゅ)である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。

大聖人は、

父母(ふも)に御孝養(こうよう)(こころ)あらん人々は法華経を(おく)り給ふべし。(中略)(さだ)めて過去(しょう)(りょう)(たちま)ちに六道の垢穢(くえ)を離れて霊山(りょうぜん)(じょう)()御参(おんまい)り候らん」

(刑部左衛門尉女房御返事・御書1506㌻)

と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。

7 他の宗教で幸福になった人もいるのではないか

私たちの周囲には、さまざまな宗教や信仰によってそれなりの幸せを感じて(くら)している人もいるようです。

しかし人は幸福そうに見えていても、その実体(じったい)はわからないものです。

外見(がいけん)大邸宅(だいていたく)に住み、社会的にも恵まれた地位にありながら、非行や障害(しょうがい)のある子供を持って、苦労している人もあり、家庭内の不和や、親族間の財産(あらそ)いに明けくれている家もあります。

また、現在は一時的に満足できても、明日(あす)(たし)かなる()(しょう)は、どこにもないのです。

したがって、他の宗教を信じて確かに幸せになったなどと軽々(けいけい)に結論を(くだ)すことはできません。

また、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり」ということわざがあるように、その家の過去の人々の善業(ぜんごう)が、今の人々の身の上に余徳(よとく)となって(あら)われている場合もありましょう。

信仰には、確かに現世(げんせ)利益(りやく)がなくてはなりませんが、反面、その一時の小さな利益のみに眼がくらんではならないのです。

たとえば、ある宗教を信じ、高名(こうめい)霊能者(れいのうしゃ)などに相談を持ちかけ、少しばかりよいことがあったり、商売が上向(うわむ)いたことがあったばかりに、その宗教や霊能者に執心(しゅうしん)して、真実の仏法の正邪(せいじゃ)や、正しい因果(いんが)の道理に(のっと)った判断ができなくなってしまうようなものです。

他の宗教で幸福になったと思う人も、大概(たいがい)はこうした人々であって、いわば一時の低い利益に()いしれているようなものです。(きび)しい言い方をすれば、浅薄(せんぱく)な宗教を信ずるということは、より(すぐ)れた根本の教えを知らず、結果的には最勝の教えに(そむ)くということであり、その背信(はいしん)(ばち)をのがれることはできません。

ちょうど、悩みや苦しみを、お酒によってまぎらわしたり、麻薬(まやく)の世界に一時の楽しみを求めた人たちが、その悦楽(えつらく)から抜け出せず、結局、アルコール中毒や、取り返しのつかない廃人(はいじん)となってしまうように、他宗の小利益に(しゅう)する末路(まつろ)には、大きな不幸、すなわち、最高・最善の仏法に背く大罰(だいばち)が待ちうけているということを知らなければなりません。

つまり、いつとはなしに身心ともにむしばまれた、地獄(じごく)のような生活に堕してしまうのです。

日蓮大聖人は、

(まさ)に知るべし、彼の威徳(いとく)有りといへども、(なお)阿鼻(あび)(ほのお)まぬか()れず。(いわ)んやわづかの変化(へんげ)にをいてをや。(いわ)んや大乗誹謗(ひぼう)にをいてをや。(これ)一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。(おそ)るべし畏るべし」

(星名五郎太郎殿御返事・御書366㌻)

と説かれており、他宗を信ずることによってもたらされる現象(げんしょう)は、けっして功徳とはならず、むしろ、正法への帰依(きえ)(さまた)げ、不幸へと導く悪知識(あくちしき)であると(おお)せです。

幸福の条件のひとつには、現在の生活の上におけるさまざまな願望(がんぼう)充足(じゅうそく)()げられますが、人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたる、ゆるぎない成仏の境界(きょうがい)であって、真の幸福とはここに(きわ)まるものなのです。

そして、この三世にわたる成仏は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大法を離れては、絶対にありえないのです。

8 他の宗教によって現実に願いがかなったので信じているが

日蓮正宗以外の宗教を信じ、〝商売がうまくいった〟とか、〝病気が(なお)った〟という人がいます。また日蓮正宗に入信しても、初めは周囲の反対や人間関係などで苦労する人もいるかもしれません。

しかし、正しい仏法とは私たちに正しい本尊と修行を教え、身心両面にわたって育成(いくせい)錬磨(れんま)し、(きゅう)(きょく)の目的である仏の道を成就(じょうじゅ)させることを目的としています。

正しい仏道修行をすることによって、いかなる苦難(くなん)障害(しょうがい)がおきてもそれを乗り越えていける人こそ真に幸せな人なのです。困った時だけ(おが)み屋のような宗教にすがって一時しのぎの解決をしても、それは人生の本質的な幸福につながるものではありません。たとえば、勉強をしない子供に試験の時に(こた)えだけを教えて、よい点数をとらせたからといって、その子供の学力が向上(こうじょう)することにならないと同様(どうよう)なのです。

もし現在、悩みがあったとしても、善因(ぜんいん)を積んで善果(ぜんか)を生ずるように、その原因をよく知って、正法(しょうぼう)(しょう)()帰依(きえ)しなければ真の解決にならないことを知るべきです。

また、低俗な宗教によって悩みが一時的に解決したからといって、それが人生のすべてに通用し、人生の苦を根本から解決できることになるわけではありません。むしろ苦難に()った時に努力することを忘れて一時の神だのみに走ることだけが身についてしまうでしょう。それはその人にとって決してよい結果とはいえません。

悩みや問題はひとそれぞれにさまざまですが、その人の()い立ちや周囲の(えん)、年齢や心がけなどによって解決のかたちもまた(こと)なっています。

たとえば、(たね)をまいても(ただ)ちに花を開かせることはできませんが、時が至れば必ず開花するように、(とき)()(じゅく)さなければ解決しない場合もあるのです。

また誤った宗教に縁することによって、願いがかなったこと以上に生命が汚染(おせん)され、将来大きな苦しみを生ずる業因(ごういん)となることをよく認識(にんしき)すべきです。

日蓮大聖人は、

「現在に一分(いちぶん)のしるしある様なりとも、天地の知る(ほど)(いの)りとは成るべからず。魔王(まおう)魔民(まみん)()守護(しゅご)を加へて法に(しるし)()(よう)なりとも、(つい)には()()檀那(だんな)安穏(あんのん)なるべからず」

(諌暁八幡抄・御書1531㌻)

(おお)せられ、一時的に祈りがかなったように見えても、邪宗教によるものは、正法を隠蔽(いんぺい)しようとする魔の所為(しょい)(おこ)ない)にすぎないと説かれています。

そして正法による祈りについて、

「大地はさゝばはづるゝとも、虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、(しお)()()ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな()はぬ事はあるべからず」

(祈祷抄・御書630㌻)

とものべられ、人生根本の大願(だいがん)たる成仏も、強い信心によって必ずかなうと教示(きょうじ)されています。

また日寛上人も、日蓮大聖人建立(こんりゅう)の大御本尊の利益(りやく)について、

「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、(すなわ)ち祈りとして(かな)わざるなく、(つみ)として(めっ)せざるなく、福として()たらざるなく、理として(あら)われざるなきなり」

(観心本尊抄文段・文段集443㌻)

と仰せられています。

真実の祈りは、正法正義による仏道修行によってかなうのであり、低俗な宗教によるならば、かえって苦業(くごう)をますことを知るべきでありましょう。

9 先祖が代々守ってきた宗教を捨てることはできない

だれしも先祖代々長く守ってきた宗教に愛着(あいちゃく)があり、その(しゅう)()を捨てることは先祖の意に(そむ)くように思い、一種の恐れのような感情を(いだ)くのは、無理からぬことです。

しかし、先祖がいったい、どうしてそうした宗教を(たも)ち、その寺の檀家(だんか)になったかということを、昔にさかのぼって、考えてみますと、その多くは、慶長(けいちょう)十七年(一六一二年)に始まる徳川幕府の寺請(てらうけ)制度(せいど)によって、強制的に菩提寺(ぼだいじ)が定められ、宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)(ちょう)戸籍(こせき))をもって、長く管理統制(とうせい)されてきた名残(なご)りによるものと思われます。

江戸時代は信仰しているかどうかにかかわらず、旅行するにも、()(じゅう)するのにも、養子(ようし)縁組(えんぐみ)するにも、すべて寺請(てらうけ)手形(てがた)下付(かふ)が必要だったのです。もちろん宗旨を変えたり檀家(だんか)をやめることは(ゆる)されませんでした。

したがって、庶民は宗教に正邪浅深があり、浅い方便(ほうべん)の教え(仮りの教え)を捨てて、真実の正法につくなどという化導(けどう)を受ける機会もありませんでした。せいぜい現世(げんぜ)利益(りやく)(たの)んで、檀家制度とは別に、有名な神社仏閣(ぶっかく)縁日(えんにち)祭礼(さいれい)に出かけたり、物見(ものみ)遊山(ゆさん)を楽しむぐらいのものでした。

しかし現代は、明治から昭和にかけての国家権力による宗教統制もようやく()けて、真に信教の自由が()(しょう)され、みずからの意志で正しい宗教を選び、過去の悪法や制度に左右されることなく、堂々と正道を求めることができる時代になったのです。

言葉をかえて言えば、今こそ先祖代々の人々をも正法の功力(くりき)によって、真の成仏に(みちび)くことができる時がきたのです。

釈尊の本懐(ほんがい)である法華経には、

()(きょう)(たも)(がた)し、()(しばら)くも(たも)(もの)(われ)(すなわ)歓喜(かんぎ)諸仏(しょぶつ)(また)(しか)なり」

(宝塔品第十一・開結354㌻)

と説かれています。

すなわち、世間の人々の(ちゅう)(しょう)妨害(ぼうがい)のなかで、妙法蓮華経の大法を信じ持つことは、なまやさしいことではありません。しかし、(たも)(がた)く行じ難いからこそ、三世(さんぜ)十方(じっぽう)の諸仏は歓喜して、その妙法の持者を守るのだと説かれているのです。

また日蓮大聖人は、

(いま)日蓮()(たぐい)(しょう)(りょう)(とぶら)ふ時、法華経を読誦(どくじゅ)し、南無妙法蓮華経と唱へ(たてまつ)る時、題目の光無間(むけん)に至って即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)せしむ」

(御義口伝・御書1724㌻)

(おお)せられています。

本当に先祖累代(るいだい)の父母を救おうと思うならば、日蓮大聖人の仰せのように、一乗の妙法蓮華経の題目の功徳を(そな)え、真実の孝養をつくすことが肝心(かんじん)なのです。

今のあなたが、先祖が長い間(あやま)りをおかしてきた宗教を、そのまま踏襲(とうしゅう)することは、あまりにもおろかなことです。

自分のあさはかな(こころ)にしたがうのではなく、正法にめざめてこそ、始めて先祖累代の人々を救い、我が家の幸せを開拓(かいたく)し、未来の人々をも救いうるのだということを知るべきです。

10 自分の気に入った宗教が一番よいと思う

近年、世間を騒がせたオウム真理教の信徒たちは、麻原教祖に洗脳されて、ある者は殺人者となり、ある者は見せしめのために殺されました。

またアメリカにおいては、人民寺院を標榜(ひょうぼう)(主張)する新興宗教の教祖の教えによって、集団生活をしていた千名近い信者が、ことごとく自殺して()てるというすさまじい事件もありました。

こうしたことは、極端(きょくたん)な例ですが、誤った思想や宗教の恐しさを如実(にょじつ)象徴(しょうちょう)したものといえます。

人はかたよった思想や邪宗教にとりつかれてしまいますと、その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、人の命すら自分たちの集団の論理で平気で(ほうむ)ってしまうのです。

思想や信条、ことに宗教という人間の生活規範(きはん)にかかわる大切なものは、何よりも明るく清々(すがすが)しく健康的な理念で、うら打ちされていることが必要です。人々を心の底から躍動(やくどう)させる(よろこ)びにあふれたものでなければなりません。

洋服や食べ物ならば、自分の好きなものを選べばよいのですが、自分の人生や家庭、生活に重大な影響(えいきょう)を持つ宗教の場合は、その根本たる本尊や教義の内容を正しく取捨(しゅしゃ)選択(せんたく)することが大切です。

宗教の正邪・勝劣を知るためには、少なくともその宗旨が何を本尊とし、何を信仰の対象(たいしょう)としているかということを、まず(たず)ねる必要があります。

また、本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、一切の人々が過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたって救済(きゅうさい)されるのみならず、地獄界から仏界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。

日蓮大聖人は、

「同じく信を取るならば、又大小権実(ごんじつ)のある中に、諸仏出世の本意(ほんい)、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。(たも)(ところ)の御経の諸経に(すぐ)れてましませば、()(たも)つ人も(また)諸人にまされり」

(持妙法華問答抄・御書297㌻)

と仰せられています。

信仰を(こころざ)すならば、好ききらいで判断するのではなく、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願(せいがん)(とうと)さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。そして永遠性や普遍性(ふへんせい)にとみ、広大(こうだい)無辺(むへん)の功徳の(そな)わった世界一の宗教を(たも)つべきです。

11 自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ

位牌(いはい)とは(むかし)中国において、存命(ぞんめい)(ちゅう)に受けた官位(かんい)姓名(せいめい)(しる)した木牌(もくはい)に始まるといわれています。

日本では、葬儀(そうぎ)のときに白木(しらき)の位牌に法名(ほうみょう)俗名(ぞくみょう)、死亡年月日、年齢(ねんれい)を記して、祭壇(さいだん)に安置します。これは、回向(えこう)のためと、参列者(さんれつしゃ)に法名などを披露(ひろう)するためのならわしといえます。

したがって位牌そのものを、礼拝(らいはい)対象(たいしょう)にしたり、死者の霊が宿(やど)っているなどと考え、それに執着(しゅうちゃく)するのは誤りです。

位牌はけっして本尊のような信仰の対象物ではなく、位牌を(おが)んだからといって、死者の霊を(なぐさ)めることができるというものではありません。

世間(せけん)の多くの人々が白木の位牌を、のちに金箔(きんぱく)などの位牌に(あらた)め、その位牌を守ることがいかにも尊い大事な意味を持っているように考えていますが、これも本来の死者の成仏、死者に対する回向、供養とは何の相関(そうかん)関係(かんけい)もないことなのです。

真実の死者に対する供養のためには、なによりも一切の人々を救済(きゅうさい)成仏(じょうぶつ)させうる力と働きと法門の(そな)わった本門の本尊を安置し、本門の題目を唱えて、凡身(ぼんしん)仏身(ぶっしん)へ、生死(しょうじ)涅槃(ねはん)へと導くことに()きるのです。

日蓮大聖人は、

「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。されば()の題目には余事(よじ)を交へば僻事(ひがごと)なるべし。()の妙法の(だい)(まん)()()を身に(たも)ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」

(御講聞書・御書1818㌻)

とも、また、

(ただ)南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」

(九郎太郎殿御返事・御書1293㌻)

と説かれています。

父母の成仏や、我が身の成仏を願い、一家の幸せを築くためには、一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本門の本尊を持ち、その御本尊に整足(せいそく)する成仏の種子(しゅし)たる南無妙法蓮華経の本門の題目を唱える以外には絶対にありえないのです。

したがって位牌も塔婆(とうば)も、この本門の本尊のもとにあって、しかも題目をしたためてこそ、死者の当体を回向する十界(じっかい)互具(ごぐ)一念三千(いちねんさんぜん)の法門の原理が(そな)わるのです。梵字(ぼんじ)新寂(しんじゃく)(くう)などの字が(きざ)まれた他宗の位牌や塔婆を建てることは、仏の本意にもとづく供養の仕方(しかた)ではありませんから、先祖のためには、かえってあだとなり、実際には先祖を苦しめ正法不信の罪過(ざいか)を重ねる結果となってしまうのです。

12 信仰の自由は憲法でも保障されているのだから、なにを信じてもよいはずだ

日本国憲法の第二十条に、

信教(しんきょう)の自由は、何人(なんびと)に対してもこれを保障する」

と、明確に信教の自由が保障されています。

この条目は、かって古代、中世より近世にいたる長い国家権力による、宗教統制(とうせい)の歴史の反省から、信教の自由が国民の一人ひとりに始めて保障されたものです。

朝廷(ちょうてい)による宗教への保護と規制(きせい)、また、江戸幕府の寺請制度(てらうけせいど)転宗(てんしゅう)禁制(きんせい)、近代国家主義下の神道(しんとう)の強制などの歴史を()て、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧(だんあつ)迫害(はくがい)の恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。

しかし、ここで私たちが注意しなくてはならないことは、どのような信仰を(たも)とうとも、(たし)かに法律の上では自由を保障される時代を迎えたとはいえ、信教の自由の意味を(たん)に、宗教の正邪、善悪(ぜんあく)無視(むし)して、何をどう信じてもいいと、安易(あんい)にとらえてはならないということです。

信教の自由は、個人個人が自分の意志で、宗教の正邪・浅深を判断し、より正しく勝れたものを選び取る権利を持つということであり、その権利の行使(こうし)には、それを正しく役立てていく、主権者(しゅけんしゃ)としての責任もあるのです。

法律の上では宗派の持つ教義の正邪の判断を(くだ)し、規制することはできませんが、実際に宗教を選ぶという時には、一人ひとりが正邪を(きび)しく判定して、唯一(ゆいいつ)の正法を選ぶことが肝要(かんよう)です。

信教に限らず、尊い自由の保障を受けた私たちは、この自由の基本的な権利を積極的に生かし、(みずか)らの責任において、立派(りっぱ)にその恩恵(おんけい)を行使していく意志を持たなくてはなりません。

せっかく憲法で保障された信教の自由を、放逸(ほういつ)(わがまま)の意味に曲解(きょっかい)するのは、あまりにも無責任に()ぎます。

13 信仰は必要なときだけすればよいのではないか

〝信仰を必要とする時〟とは、どのような時を()すのでしょうか。苦境(くきょう)に立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的(かんれいてき)に神社仏閣(ぶっかく)参詣(さんけい)する正月や盆、彼岸(ひがん)を指すのでしょうか。あるいは冠婚(かんこん)葬祭(そうさい)の時でしょうか。または人生のなかで老境(ろうきょう)に至った時という意味でしょうか。

こうしてみると、〝信仰を必要とする時〟といっても、受けとり方によって意味がまったく(こと)なりますから、一部分のみをとらえて、そのよし()しを論ずることはできませんが、いま質問の内容について、わかりやすく説明するために、〝信仰をしなくともよい時〟があるかどうかを考えてみましょう。

そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。

信仰の意義として大要(たいよう)次の三点が()げられます。

第一に正しい宗教は、人間の生命を含む時間空間を()えた宇宙(うちゅう)法界(ほうかい)の真理を(さと)った本仏が、私たち衆生(しゅじょう)に対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。それはあたかも人生という草木を生育(せいいく)している大地のようなものであり、人間という電車を幸せに向って快適(かいてき)に走らせるためのレールのようなものです。私たちの人生は()いも若きも平等に時々(じじ)刻々(こくこく)と過ぎ去って行きます。(だれ)もが毎日毎日が、生きた草木であり、走りつつある電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。また走りつつある電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。宗教とは人間の根本となる教えということであり、宗教のない人生は人間としての根本の指針(ししん)欠落(けつらく)した、さまよえる人生というべきなのです。

第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間としてもっとも崇高(すうこう)境界(きょうがい)を目標として修行することです。成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧(ちえ)涌現(ゆげん)させ、何ものにも(くず)れることのない絶対的に安穏(あんのん)自在(じざい)境地(きょうち)(きず)くことであり、この高い目的地に至るためには、たゆまぬ努力と精進(しょうじん)が必要です。どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道を(きわ)めるためには、正しい指導とたゆまぬ修行鍛錬(たんれん)がなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じであり、真の目的をなしとげることはできません。

第三に正しい宗教とは人生の苦悩(くのう)を根本的に解決するためのものであり、これを実践(じっせん)(信仰)すれば(おの)ずと苦悩を乗り越える勇気と智慧などの生命力が(そな)わるのです。それのみならず正法を信ずることによって、日常生活が仏天(ぶってん)加護(かご)を受けることも厳然(げんぜん)たる事実です。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みを(かか)えながら生きているのではないでしょうか。また明日どころか一時間さきに何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕を()じるかもわからないのです。〝必要な時が来れば信仰する〟などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがいのない人生の時間を無駄(むだ)にしているといわざるをえません。

あなたにとって〝信仰が必要な時〟、それはいまを()いてないのです。

14 歴史のある有名な神社やお寺の方がありがたいと思うが

奈良や京都の歴史的に名高い神社や寺々は、今もなお多くの観光客が(おとず)れています。

たしかに年月を()た建物や、静かな庭園のたたずまいには、いかにも心をなごませる落ち着いたふんい気があります。

しかし、よくよく考えてみなければならないことは、宗教の本来の役割(やくわり)物見遊山(ものみゆさん)や観光のためではなく、民衆を法によって救うことにあるということです。

歴史的に有名であったり、大ぜいの観光客が訪れるということと、実際にその寺院が人々の救済(きゅうさい)に役立っているか、また参詣者(さんけいしゃ)功徳(くどく)を与えているかということとは別の問題なのです。

昔の人の川柳(せんりゅう)に「大仏は見る物にして尊ばず」という一句がありますように、奈良の大仏を見に行く人や、見上げてその大きさに感心する人はあっても、心から信じて礼拝(らいはい)合掌(がっしょう)する人はいないものです。

信仰心をもって行くというよりは、観光のために訪れるというのが本心でしょう。

古都(こと)の神社や寺々は、もはや宗教本来の目的を失い、拝観(はいかん)(りょう)などの観光による財源(ざいげん)で建物を維持(いじ)することに窮々(きゅうきゅう)としているというのが現状です。

そのほか、正月や縁日(えんにち)に大ぜいの参詣者でにぎわう有名な寺社も、宗旨の根本である本尊と教義を調べてみると、まったく根拠(こんきょ)のない本尊であったり、仮りの教えであるなど、今日の人々の救済(きゅうさい)になんら役立つものではなく、むしろ正法流布のさまたげとなっているのです。

ところが宗教の正邪を判断できない人々は、開運(かいうん)・交通安全・商売繁盛(はんじょう)厄除(やくよ)けなどの宣伝文句にさそわれ、これら有害(ゆうがい)無益(むえき)の寺社におしかけ、(みずか)ら悪道の原因を()み重ねているのです。

日蓮大聖人は、

(なんじ)(ただ)正理(しょうり)を以て(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ」

(聖愚問答抄・御書402㌻)

と説かれているように、正しい本尊と、勝れた教法によって、民衆救済の(じつ)をあげていくところに宗教の本質があるのであって、ただ歴史が古い、名が通っている、多くの参詣者でにぎわっているということをもって、その寺社を尊んだり勝れていると考えてはならないのです。

歴史的な建物や、庭園・遺跡(いせき)などには、それなりの価値(かち)はあるのでしょうが、人々を救済するという宗教本来の目的から見れば、これら有名な寺社にはなんらの価値(かち)もないばかりか、むしろ人生の苦悩(くのう)の根源となる悪法と、社会をむしばむ害毒(がいどく)のみがうずまいていることを知るべきです。

15 (じゃ)(しゅう)という呼び方が気に入らない

邪宗という言葉は、日蓮正宗の人が、やみくもに他宗を攻撃(こうげき)するために勝手に使っているのではありません。

釈尊は法華経に、

正直(しょうじき)方便(ほうべん)()てて(ただ)()上道(じょうどう)を説く」

(方便品第二・開結124㌻)

と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経々(きょうぎょう)を捨てることを説き、これ以後に説示(せつじ)する法華経こそ最高唯一(ゆいいつ)の無上道であると言われています。また方便の経々に執着(しゅうちゃく)していた弟子の舎利弗(しゃりほつ)(みずか)ら、

世尊(せそん)()(こころ)()ろしめて、(じゃ)()涅槃(ねはん)()きたまいしかば、(われ)(ことごと)邪見(じゃけん)(のぞ)いて空法(くうほう)(おい)(しょう)を得たり」

(譬喩品第三・開結132㌻)

述懐(じゅつかい)していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と(しょう)しています。

また、日蓮大聖人は末法の教主として、

「正直に権教(ごんぎょう)邪法(じゃほう)邪師(じゃし)邪義(じゃぎ)を捨てゝ、正直に正法(しょうぼう)(しょう)()(しょう)()を信ずる」

(当体義抄・御書701㌻)

ことが、もっとも大切であると教えています。

これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。

ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的(こうげきてき)なしかも刺激(しげき)の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて(よこし)まな宗教が元凶(げんきょう)となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸のたねだからです。

昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別に殺戮(さつりく)しました。いま私たちが、核兵器の行使(こうし)悪魔(あくま)所業(しょぎょう)であると(さけ)び、この(にく)むべき不幸を二度とくり返してはならないと(うった)えるのは当然でしょう。そしてその不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発(ゆうはつ)されたことを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾(しだん)することは言いすぎでしょうか。失礼に当たるから(ひか)えるべきなのでしょうか。

涅槃(ねはん)(ぎょう)に、

「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」

と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道(さんなくどう)()ちて永劫(えいごう)に苦しみ続けるということです。

一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤(かくせいざい)麻薬(まやく)のように、本人も気付(きづ)かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を(くる)わせていくのです。

正しい仏法に目醒(めざ)めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する(いか)りであり、いまなお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告(けいこく)(あら)われでもあるのです。