1 いまさら改宗(かいしゅう)するのはめんどうだ

「めんどうくさい」といって、怠惰(たいだ)をきめこみ「世間体(せけんてい)が悪い」などと、求道(きゅうどう)の前に、すでにしり込みしてしまうような生き方をしていては、家庭にあっても、職場にあっても、真の職責(しょくせき)使命(しめい)()たすことはできません。

つまるところ、人生の目的は幸福でありますから、その目的に向って、ひとつひとつ障害(しょうがい)となるものを取り(のぞ)いて前進していくべきです。積雪(せきせつ)の中を走る汽車の前進をはばむ雪は(はら)わねばなりません。雪かきがめんどうだといっていては汽車は前に進みません。

日蓮大聖人は、「(なんじ)早く信仰の寸心(すんしん)(あらた)めて(すみ)やかに実乗(じつじょう)一善(いちぜん)に帰せよ」(立正安国論・御書250㌻)と(おお)せられています。また正しい信仰に対する小さな発心(ほっしん)、ほんのわずかな精進(しょうじん)が、あとに大きな力となってあらわれてくることを、「小事(しょうじ)つもりて大事(だいじ)となる」(衆生心身御書・御書1216㌻)とも教えられています。

「親兄弟がなにか言いやしないか」・「親戚(しんせき)の人が反対しないか」・「上司(じょうし)や友人が軽蔑(けいべつ)しないか」・「先祖からの墓地があるので改宗しにくい」などと、()()苦労(くろう)するよりも、今日の小さな発心が、やがて大きな喜びとなり、功徳(くどく)となって返ってくることを確信してください。その喜びと確信をもって、かえって反対しているそれらの人々をも、正法に(みちび)くことができるのです。

まして、今日の民主主義の社会においては、封建(ほうけん)時代のように、改宗によって命に(およ)ぶほどの迫害(はくがい)があろうはずもありません。まったくみずからの意志において、正しい信仰に帰依(きえ)し、実践(じっせん)することができる時代です。信仰の自由を謳歌(おうか)できる現代は、もう周囲のしがらみや、世間体をはばかって過去からの宗教にとらわれているときではありません。「よき人材となろう」・「幸福になろう」という発心の心とともに、敢然(かんぜん)として邪義(じゃぎ)を捨てて、正法を実践することがなによりも大切です。

大聖人は、「かなしきかな今度(このたび)()の経を信ぜざる人々。(そもそも)人界(にんがい)(しょう)を受くるもの(たれ)無常(むじょう)(まぬか)れん。さあらんに取っては何ぞ後世(ごせ)つと()めをいたさゞらんや」(新池御書・御書1456㌻)と仰せられ、せっかく人間に生まれたからには正しい信仰をもって将来の幸福を築くべきであると教えています。

いたずらに無為(むい)な時間を過ごすことなく意を決し、勇気をもって正法につくことこそが、今、あなたのとるべき道であるといいたいのです。

2 信仰をすると周囲から奇異(きい)な目で見られるのではないか

人は(みな)生き方が違いますし、宗教に対する認識(にんしき)もそれぞれ(こと)なります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教をアヘンのように思っている人、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。

今あなたは信仰の必要性を認識(にんしき)したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。

しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観は(とう)()たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに(したが)ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。

欧米(おうべい)では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針(ししん)も持っていない人だと軽蔑(けいべつ)され、奇異な目で見られるそうです。

また現代は宗教の時代といわれ、世間(せけん)でも人生を充実(じゅうじつ)させるために宗教の必要性を痛感(つうかん)している心ある人がふえているといわれています。

現代では信仰を()つことが()ずかしいどころか、むしろ人生を深く考え、より向上(こうじょう)しようという心ある行為(こうい)といえるのです。「周囲の奇異な目」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判(ひはん)しているわけではなく、あなたの思いすごしの部分が多いのではないでしょうか。

日蓮大聖人は、

「百千()はせたる(くすり)も口にのまざれば(やまい)()えず。(くら)に宝を()てども開く事を知らずしてかつ()へ、(ふところ)に薬を(もち)ても()まん事を知らずして死するが(ごと)し」

(一念三千法門・御書110㌻)

(おお)せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は(きず)かれないと教えられています。

他人の目を気にして至上(しじょう)の宝である正法の信仰を持たず無為(むい)()ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失(そんしつ)になるのです。

入信当初は、一時(こころ)ない人から奇異な目で見られることがあるかもしれませんが、「真実の宗教を信仰して幸せな境涯(きょうがい)を築くのだ」という、強い自覚と信念と(ほこ)りをもって信仰に励むならば、周囲の人もやがてはあなたを見直(みなお)して尊敬(そんけい)眼差(まなざ)しを()けるようになるでしょう。

大聖人は、

「されば(たも)たるゝ法だに第一ならば、(たも)つ人(したが)って第一なるべし」

(持妙法華問答抄・御書298㌻)

と、最高の教えを持つ人は、また最高にすばらしい人だと仰せられています。

どうか、とり()し苦労や弱気(よわき)をふり(はら)い、勇気をもって真実の門に入り、正々(せいせい)堂々(どうどう)と人生の大道を(あゆ)んで下さい。

3 特定の宗教への入信は人間関係をむずかしくするのではないか

「特定の宗教」とは日蓮正宗を()していると思われます。ひとことで言えば、日蓮正宗に入信することが原因になって人間関係を(そこ)ねるということはまったくありません。

もし特定の宗教に入信することが人間関係に支障(ししょう)をきたすというならば、宗教に(かぎ)らず〝特定の学校〟に入ったら旧友(きゅうゆう)と仲たがいするのでしょうか。〝特定の会社〟に入ったら友情にひびが入り、〝特定の政党〟を支持したら親子の断絶(だんぜつ)が生ずるとでもいうのでしょうか。

国籍(こくせき)が定まっている人は、〝特定の国家〟の一員であり、住所が定まっている人は〝特定の地域〟の住民です。このように国籍や職場・学校、あるいは政党に限らず、私たちは多くの〝特定の〟社会や集団・組織(そしき)の一員として生きているのではありませんか。もし国籍も住所も不定であり、所属する職場や学校も定まらず、これといった信念も持っていないならば、その人はまったく信用されないでしょう。

これが宗教となると、特定の信仰を持つことがいけないような錯覚(さっかく)にとらわれるのはなぜなのでしょう。欧米(おうべい)の人々は自分がひとつの信仰を持つことに大きな誇りを感じ、堂々と自分が信じている宗派を披瀝(ひれき)します。ですから信仰を(たも)っていない人間を心に深みとゆとりのない()教養(きょうよう)の人として軽蔑(けいべつ)するのです。「特定の宗教……」といって、ひとつの信念を()つことを()みきらうような言い方をするあなたは、たとえば「私には心から尊敬している人がいます」というより、「私は(だれ)をも尊敬しません」と答える方が、格好(かっこう)がよくて人間関係を損ねない利口(りこう)な方法だと思いますか。

あなたが心配している「人間関係」とは、

  1. 特定の宗教をもつと考え方や意見がちがってきらわれるのではないか
  2. 信仰活動によって〝つき合い〟の時間がなくなるのではないか
  3. 周囲から色メガネで見られたり、異端者いたんしゃとしてのレッテルをられるので

はないか

などの点であろうと思われます。しかし正しい仏法に帰依(きえ)して真実の人生を歩もうとすれば、周囲に一時的な変化があるかもしれませんが、いずれ信仰者の姿や言動(げんどう)(つう)じて周囲も理解を深め、以前にもましてよりよい人間関係が築かれることを確信すべきです。

実際(じっさい)にあった話ですが、非行グループに入っていた少年がひとつのきっかけで母親の願いを()れて正法を信仰するようになったところ、いつしか悪友たちが遠ざかり、良い友達がふえてその少年は立派(りっぱ)更生(こうせい)した、ということです。

この少年に対して、あなたは「少年が信仰をしたために悪友との人間関係を(そこ)ねたことはよくない」とは言わないでしょう。

もし周囲に宗教に無知(むち)な人がいるならば、こと宗教に関する意見や考え方にくい違いがあるのは当然ですし、その時は誠意(せいい)をもって正しい仏法を持つことがどういうことかを教えてあげればよいのです。

日蓮正宗を信仰する人は、信仰によって(つちか)われた生命力と快活(かいかつ)な人間性を発揮(はっき)して、正常な人間関係を積極的に作る人々です。現在世界の正宗信徒は信仰以外の分野(ぶんや)においても、おのおのの社会、職場そして個々のつながりを大切にして、日夜向上(こうじょう)(はか)って努力しているのです。

4 日蓮正宗に入信すると結婚や就職(しゅうしょく)がしにくくなるのではないか

人それぞれに(この)みが違うように、宗教についてよく認識(にんしき)していない人の中には、日蓮正宗をこころよく思わない人もいるでしょう。

まして日蓮正宗は正邪(せいじゃ)のけじめをはっきりさせる教えであり、自らの信仰に励むだけではなく他の人に布教(ふきょう)する宗教ですから、時には誤解をする人もいるようです。

しかしこのような人でも、よく聞いてみると、正宗の教義そのものや信仰すること自体をきらっているのではなく、信仰活動にかこつけて家庭を(かえり)みなくなったり、職場での仕事がおろそかになる、遅刻(ちこく)欠勤(けっきん)が多くなる、布教(ふきょう)によって人間関係が(そこな)われる、などの点に対して心よく思わないようです。

日蓮大聖人は、

「御みや()づかい()を法華経とをぼしめせ」

(檀越某御返事・御書1220㌻)

(おお)せられ、法華経を持つ者は社会人としての(つと)めに対しても真剣(しんけん)に取り組まなければならないと(いまし)められています。

この言葉どおり全国・全世界の正宗信徒は立派(りっぱ)な社会人・家庭人として襟度(きんど)をもって日夜努力しています。しかしもし正宗信徒を名乗りながら、信仰にかこつけて社会的に信用を落したり、世間から顰蹙(ひんしゅく)を買うような者がいたならば、実に残念なことといわなければなりません。またこのようなごく一部の姿をもって、正宗を正当に評価(ひょうか)できない人も実に不幸なことというべきです。

広い世間のことですから、ごくまれな例としては、それぞれの家風(かふう)や会社の方針として正宗の信仰を(きら)うところもあるかもしれません。また反対に正宗の信仰者を優先的(ゆうせんてき)歓迎(かんげい)するところもあるでしょう。だからといって、そのつど、信仰をしたり、しなかったりすることは(おろ)かなことですし、信仰の意義がわからない証拠(しょうこ)でもあります。

正しい信仰とは人生の羅針盤(らしんばん)のようなものです。もし船に羅針盤がなければ安全な航行(こうこう)はできませんし、目的地に着くこともできません。

もしあなたが現在結婚や就職(しゅうしょく)という人生の岐路(きろ)に立っているならば、もっとも大切なことは目先(めさき)の結婚や就職はゴールではなく、スタートであるという心構(こころがま)えをもつことです。もし希望どおりの結婚や就職ができたとしても、そのあとの長い家庭生活や社会生活の中で、必ず起こるさまざまな問題や困難(こんなん)(かべ)雄々(おお)しく克服(こくふく)し、着実(ちゃくじつ)に幸福に向かって前進するためにはその根本に正しい信仰がなければならないのです。

見栄(みえ)体裁(ていさい)ばかりを気遣(きづか)い、信仰をすると周囲からどんな眼で見られるかと神経質(しんけいしつ)になるよりも、自分の人生になにがもっとも大切かを考えるべきです。そして正しい信仰によって、(きび)しい苦難に負けない強い生命力と、賢明(けんめい)にして明朗(めいろう)な人格を(やしな)うことが真の幸福に到達(とうたつ)する道であることを考えるべきでありましょう。

5 信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるのではないか

まず第一は、信仰のために時間が(うば)われ、そのしわ()せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、もう一つは、信仰することによって、努力(どりょく)をしなくても(たな)ぼた式に幸運にめぐまれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。

しかし日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用(むよう)です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭(へんきょう)なものではないからです。

私たちが仕事に(はげ)む目的は、自身の生活をより豊かにして、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとするところにあるといえましょう。しかしそこに(きず)かれた幸せは、恒久的(こうきゅうてき)なものとはいえません。なぜなら、たとえ仕事が成功して、経済的に裕福(ゆうふく)になったとしても、それは表面的な一時の結果であり、前世(ぜんせ)善因(ぜんいん)にもとづく果報(かほう)ですから、その果報が()きれば、その福徳(ふくとく)もつきるからです。

したがってその幸せを恒久的なものにするために、正しい信心が必要なのです。正しい信仰による果報は、今生(こんじょう)の幸せはもとより、未来世(みらいせ)への福徳を無限(むげん)()んで、永遠に(くず)れない幸福となるのです。

大聖人の仏法に「世法(せほう)(そく)仏法(ぶっぽう)」という原理があります。これを広く社会全体の立場から見れば、「社会(しゃかい)(そく)仏法(ぶっぽう)」ということになりましょうし、個人の立場から見るならば「信心(しんじん)(そく)生活(せいかつ)」ということになります。

この原理は、仏法が私たちの現実の生活を離れてあるのではなく、むしろ生活そのもののなかにあるということを示したものなのです。

大聖人は、「まことのみち()世間(せけん)事法(じほう)にて(そうろう)。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と(しゃく)せられて候」(白米一俵御書・御書1545㌻)と(おお)せです。これは、現実社会のあらゆる現象(げんしょう)と仏法は一体であり、私たちの生活のなかに仏法の真理があらわされていることを教えられているのです。

現実の社会は、「政治」や「経済」によって動いているといっても、それを動かす主体は人間にほかなりません。

ゆえに大聖人は、妙法(みょうほう)受持(じゅじ)し、純真(じゅんしん)に信仰を(つらぬ)く人は、社会のあらゆる現象(げんしょう)実相(じっそう)見極(みきわ)めていけることを、「天晴(てんは)れぬれば地明(ちあき)らかなり、法華(ほっけ)()る者は世法を()べきか」(観心本尊抄・御書662㌻)と教えられています。

「法華を()る」とは、正しい信仰によって、生命の永遠と、諸法(しょほう)実相(じっそう)見極(みきわ)める智慧(ちえ)(そな)えることであり、「世法を()可きか」とは、その智慧をもって仕事に励み、ひいては社会に対しても存分(ぞんぶん)にその力を顕現(けんげん)し、充分に()かしきってゆくことができるという意味です。

ゆえに信仰と生活(仕事)の関係は、信仰は大地のようなものであり、生活はその大地に()える草木ともいえます。

大地が肥沃(ひよく)であればあるほど、草木が大きく生長(せいちょう)するように、正しい信仰を()つことによって、りっぱな見識(けんしき)と、洞察(どうさつ)(りょく)(そな)えることができるのです。

こうした原理を()まえた信仰をするのですから、時間はより有効(ゆうこう)に使われ、仕事もいっそう充実していくのです。

信仰を(たも)つことによって、仕事がおろそかになるようなことは、絶対ありえないことを知ってもらいたいと思います。

6 信仰をするといろいろな制約(せいやく)があって遊べなくなるのではないか

宗教のなかには戒律(かいりつ)を定めて、教義的な制約をしているものが(すく)なくありません。特にキリスト教やイスラム教・ヒンズー教などは、結婚や食物さらに医療(いりょう)に関することまで、(こま)かく制約されています。仏教でも小乗(しょうじょう)仏教(ぶっきょう)といわれるものには二百五十戒・五百戒などの戒律が(さだ)められています。

しかし人間の煩悩(ぼんのう)は八万四千ともいわれており、これらのすべてを戒律によって規制(きせい)することは不可能なことです。

日蓮大聖人は、

「されば三世の諸仏(しょぶつ)も妙法蓮華経の五字を(もっ)て仏に()(たま)ひしなり。三世の諸仏(しょぶつ)出世(しゅっせ)本懐(ほんがい)一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(かい)(じょう)仏道(ぶつどう)の妙法と云ふは(これ)なり」

(法華初心成仏抄・御書1321㌻)

(おお)せられ、戒律や智慧(ちえ)によって成仏(じょうぶつ)するのではなく、根本の一法である南無妙法蓮華経を信じ唱えることによって成仏すると教えられています。

したがって日蓮正宗の信仰には、教義的な制約や戒律などはまったくありません。ただし、人間を不幸に(おとしい)れる邪宗教を信ずることや謗法(ほうぼう)与同(よどう)することは(かた)く禁じています。

次に信仰活動による時間的な制約については、大きくいえば人間は(だれ)でも一日を二十四時間という(わく)の中に制約されて生活しているわけですし、ひとつの社会や組織(そしき)(ぞく)すれば、それなりの規則があり、時間や行動の面で制約があるのは当然のことです。まして正しい人生を(あゆ)将来(しょうらい)にわたってくずれることのない幸福を築くための仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)、すなわち信心活動には相応(そうおう)の努力と時間が必要です。日蓮正宗の信仰をする場合、少なくとも御本尊への朝夕のお給仕(きゅうじ)仏壇(ぶつだん)清掃(せいそう)・お水や(しきみ)などを(そな)える)と読経(どきょう)唱題(しょうだい)勤行(ごんぎょう)をしなければなりません。そして大聖人が、

「月々・日々につよ()り給へ」

(聖人御難事・御書1397㌻)

と教えられているように、幸福の(みなもと)である信心を清浄(せいじょう)持続(じぞく)するのみならず、さらに行学(ぎょうがく)錬磨(れんま)してゆかなければなりません。そのためには家庭での勤行唱題とともに、寺院への参詣(さんけい)、学習会や座談会(ざだんかい)への参加などによって信心の向上(こうじょう)(はか)る必要があります。これは、なんの修行も必要としない宗教に(くら)べると、面倒(めんどう)なことのように思われるかもしれませんが、現実的に考えると、(みずか)ら読経唱題し、行学を錬磨するからこそ、その人に本当の信仰心がはぐくまれるわけですし、信心と行学の修行をともなうからこそ生きた真実の宗教であるといえるのです。

だからといって仕事や家庭が犠牲(ぎせい)になるというわけではありません。その人その人の生活のリズムに合わせて持続することが大切です。ここで大切なことは、〝規則や教義によって自分は制約されて窮屈(きゅうくつ)だ〟と受けとめるか、あるいは〝規則を守り教えによってこそ自分は正しく向上できるのだ〟と受けとめるかということです。この(ちが)いは物事(ものごと)に対していかに積極的にとりくむかという姿勢(しせい)と心によって生ずるものといえましょう。

正しい信仰は豊かな人間性と力強い生命力、そして深い智慧を(つちか)うものでありますから、日蓮正宗を信仰する人はおのずと仕事や家庭に対しても適確(てきかく)な判断と積極的な姿勢を()つようになり、信仰活動も歓喜(かんき)の心をもって実践(じっせん)できるようになるのです。

「信仰をすると遊べなくなるからいやだ」という人は、「学校ではテレビやマンガを自由にみせてくれないから行きたくない」と駄駄(だだ)をこねている子供と同じ理屈(りくつ)です。

信仰をしている人でも、趣味(しゅみ)を楽しみ、レジャーを楽しむことは一般人となんら()わりません。ある人は「いままで自分が職場と家庭のことで窮窮(きゅうきゅう)としていたのは、自分の生命力が(おとろ)えていたためであったと、信心をはじめてから気付(きづ)いた」と言います。

またある人は「遊びや道楽(どうらく)も、信仰をするようになってから自然に()健康(けんこう)堕落(だらく)させるものから、健康的な人生を向上させるものに変わった」と言い、ある人は「いままでは()さばらしのために遊びに逃避(とうひ)していたが、信心によって仕事に希望(きぼう)が生まれ、家庭が円満(えんまん)になった今は、充実(じゅうじつ)した気分(きぶん)で本当の意味の余暇(よか)を楽しむようになった」とも言っています。このような体験(たいけん)は日蓮正宗の信者が一様(いちよう)(あじ)わっている一例にすぎません。

どうかあなたも日蓮正宗の信仰によって悠悠(ゆうゆう)たる境界(きょうがい)を築き、職場と家庭と、そして余暇(よか)を楽しみ()かす人生を送ってください。

7 信仰は個人的にするものだから、組織(そしき)に入らなくともよいのではないか

人間は(だれ)でもきゅうくつな思いをしたり、束縛(そくばく)されることを(この)みません。できることなら毎日の生活を、他人から干渉(かんしょう)されず、気がねすることなく、好き勝手(かって)に過ごしてみたいと思うでしょう。言い()えれば、誰でも組織的な集団にくみ込まれて種々の制約(せいやく)を受けることをきらうのです。

組織は共通の目的をもった複数の人間、または機能(きのう)によって構成(こうせい)されています。

無人島で一人で生きなければならなかったロビンソン・クルーソーの例を出すまでもなく、私たちは社会から離れてひとりで生きていくことはきわめて困難(こんなん)なことです。

人間社会はお互いによりよい生活を享受(きょうじゅ)することを目的にして、それぞれの立場で能力に応じた役割を分担(ぶんたん)し、社会に寄与(きよ)することによって(いとな)まれているのです。

大きくいえば、社会全体が総合的な機構(きこう)を持った組織体であり、この社会を国という単位で見れば、よりいっそう組織的な意味が強くなるといえましょう。

この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑(えんかつ)に運営するために、規則や法律が存在します。

これがさらにきめ(こま)かい共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力を()くすとともに、その組織によって身を守り、生活の向上(こうじょう)(はか)るなどの恩恵(おんけい)を受けるわけです。

このように私たちは生きている限り(いく)種類もの大小さまざまな組織の構成員となっているのです。

同じ組織といっても、その目的に応じて、その機構も、制約も、参加の形態(けいたい)も、そして恩恵(おんけい)も大いに(こと)なります。たとえば現在自分の職業に直接関係する組織と、小学校時代の同窓会(どうそうかい)の組織では、私たち個人を規制(きせい)する度合いも当然(ちが)ってきます。

私たちは自分の人生に大きな影響を与えるものであればあるほど、方向を誤ることなく、より実効(じっこう)をもたらすために組織が必要なのです。

もし、ある学校で、生徒が登校するのも欠席するのも自由であり、校規校則もなく、成績にかかわらず全員を卒業(そつぎょう)させたら、ほんとうの学力を養うことができるでしょうか。それこそこのような学校や生徒はいいかげんなものだという評価(ひょうか)しか(くだ)されないでしょう。このことは信仰の道についても同様(どうよう)です。個人的な気休め程度(ていど)の宗教やはっきりした目標のない教えならば、自分勝手でよいかもしれませんが、人間としての最高の境涯(きょがい)である成仏を()げるには組織の必要性を認識しなくてはなりません。仏教では人間を正道(せいどう)(みちび)向上(こうじょう)させる働きを善知識(ぜんちしき)といいます。

伝教(でんぎょう)大師(だいし)は、仏道修行を志す者の善知識として、

一に教授(きょうじゅ)の善知識、

二に同行(どうぎょう)の善知識、

三に外護(げご)の善知識

の三種を()げています。

教授の善知識とは深遠(しんえん)な仏法を教え導いてくれる師範(しはん)先輩(せんぱい)を指します。第二の同行の善知識とはたがいに励まし、助け合いながら信仰する同僚(どうりょう)や友人であり、第三の外護の善知識とは有形(ゆうけい)無形(むけい)に私たちの信仰を助け、協力してくれる人たちのことです。

これらの善知識があってはじめて私たちは正しく信仰の道を歩むことができます。またこの善知識の働きをより効果的(こうかてき)発揮(はっき)するために作られたものが信仰上の組織なのです。したがって真の幸福を築くためには、善知識である信仰組織のなかで、人間性と信仰を(みが)き、(つちか)わなければならないのです。

心が弱く、自己本位の人は人間関係を()みきらって組織から遠ざかろうとするでしょうが、真剣(しんけん)に自己の向上と鍛錬(たんれん)を願う人は、人間関係や組織を修行の場として有効(ゆうこう)()かすべきです。

8 手を合わせて(おが)むことは()ずかしい

手を合わせて拝むことが恥ずかしいというその心の底には、信仰は年寄(としよ)りくさいとか、弱い人間が行うものなどの宗教に対する偏見(へんけん)があるのではないでしょうか。いずれにしても〝恥ずかしい〟ということは、世間(せけん)の目が気になる、周囲(しゅうい)の人たちから変な目で見られないかという懸念(けねん)があるからでしょう。しかし、自分でよいと思えば、たとえ変った服装(ふくそう)(まち)を歩いたとしても、別に恥ずかしいなどとは思わないものです。人間にとって最高の幸福をもたらす正しい信仰には必ず合掌(がっしょう)がともないます。ですから合掌が恥ずかしいというのは、医者から薬をもらっても、人に見られたら恥ずかしいといって薬を飲まずに病気を悪化(あっか)させるようなものです。

病気を(なお)そうと思えば、つまらない見栄(みえ)を捨て薬を(ふく)するのが当然でしょう。それと同じように、日蓮正宗が自分の人生にとってもっとも大切であり、絶対に正しいと確信するならば、合掌(がっしょう)()ずかしいなどとは感じなくなるはずです。

合掌は荘厳(そうごん)仏前(ぶつぜん)で、もっとも(とうと)い御本尊に向かって清浄(せいじょう)な心で(おこな)うものであり、その十指(じっし)十界(じっかい)互具(ごぐ)を意味し、胸にあてるところは、我が胸中(きょうちゅう)心性(しんしょう)(びゃく)蓮華(れんげ)を生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作(むさ)三身(さんじん)()(ぎょう)一念(いちねん)三千(さんぜん)当体(とうたい)であるという深い意義を(そな)えているのです。

このことを日蓮大聖人は、「合掌とは法華経の()(みょう)なり。向仏(こうぶつ)とは法華経に()(たてまつ)るを云ふなり」(御義口伝・御書1734㌻)と(おお)せられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依(きえ)する姿であると説かれています。

ですから人間として真に幸福を願うならば、自分の小さな感情にとらわれず、また、つまらない世間の目を気にせず、真実最高の日蓮大聖人の仏法に目を開き、正直(しょうじき)な心で手を合わせ、御本尊を拝むべきです。

人間にとって()ずかしい行為(こうい)というのは、人の道を()みはずしたり、法を(おか)したり、他人に迷惑(めいわく)をかける行為をいうのです。

宗教に対する知識(ちしき)を深め、自己(じこ)の幸福はもちろんのこと、社会に平和をもたらす崇高(すうこう)な教えを正しく信仰するということは、恥かしいどころか、人間としてもっとも(ほこ)るべき行為(こうい)なのです。

9 仏教の法話は現実離れしたおとぎ(ばなし)ではないか

私たちは自分の幸不幸を目先(めさき)の現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己(じこ)の生命に内在(ないざい)する仏の生命の涌現(ゆげん)によって、現実の人生や生活の中にその力を発揮(はっき)させることです。

そのためには、仏が(さと)られた真実の教法(きょうぼう)帰依(きえ)し、仏の()(こころ)(かな)った信心修行に邁進(まいしん)しなければなりません。

しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力(くどくりき)はもちろんのこと、人間生命の実体や成仏(じょうぶつ)境界(きょうがい)などは、あまりにも深遠(しんえん)すぎてとうてい理解できるものではありません。

だからといって、仏法は難解(なんかい)だからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心(あんしん)立命(りつめい)の人生も(きず)くことはできません。ここに仏の化導(けどう)のための手段が必要になるのです。

釈尊は、「吾成仏(われじょうぶつ)してより已来(このかた)種々(しゅじゅ)因縁(いんねん)種々(しゅじゅ)譬喩(ひゆ)をもって(ひろ)言教(ごんきょう)()べ、無数(むしゅ)方便(ほうべん)をもって衆生(しゅじょう)引導(いんどう)して」(方便品第二・開結八九)と説いています。すなわち仏は(みずか)ら悟った甚深(じんじん)の法を、人々に説くに(あた)って、さまざまな因縁(原因・助縁(じょえん))、あるいは譬喩(ひゆ)(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)を(もち)いて(みちび)くというのです。

天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、「()を動かして風を(おし)(おうぎ)()げて月を(さと)す」(御義口伝・御書1733㌻)と(しる)しています。この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹が(ゆら)ぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付(きづ)かない人には、身近(みぢか)な扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近(みぢか)な言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。

あなたがもし、仏典(ぶってん)の因縁や譬喩の部分だけをとり()げて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話(とぎばなし)だ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄(せんぱく)言動(げんどう)といえましょう。

仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意に(りゅう)()し、耳を(かたむ)けるべきです。

10 宗教の世界は、科学的根拠(こんきょ)や証明があいまいではないか

「科学的」とはいったいなんでしょう。ふつう科学とは、物事や現象(げんしょう)について、その性質・変化・他との関係などを実験を通して、体系化(たいけいか)し、応用(おうよう)を考える学問のことです。

この科学の基本となる道理が因果律(いんがりつ)です。すなわち一定の物事((いん))が一定の条件(じょうけん)と作用((えん))によって、一定の結果を生ずること、たとえば酸素(さんそ)水素(すいそ)を一定条件のもとで化合(かごう)すれば、(だれ)がいつどこで(おこ)なっても、かならず水を生ずるようなものです。この普遍的(ふへんてき)な因果律が「科学的」という言葉の意味だと思います。

さてこの原則をもって現在の多様化(たようか)した宗団・宗派を見ると、質問のような〝あいまい〟な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。なかには教祖(きょうそ)発狂(はっきょう)状態になったことを、神が宿(やど)ったと称して支離(しり)滅裂(めつれつ)な言葉を神のお()げとして(あが)めるものや、祭壇(さいだん)に供えた水は霊験(れいけん)があるといって病状を無視(むし)して多量の水を飲ませるもの、あるいは(けむり)()れるだけで()(びょう)息災(そくさい)になると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や迷信(めいしん)としかいいようのない宗教も数多くあります。

このようないかがわしい宗教を別として、文証(もんしょう)理証(りしょう)現証(げんしょう)に照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的な(まなこ)をもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識で(はか)れないからという理由で、現実の事象(じしょう)否定(ひてい)したり、〝非科学的〟と()めつけることは、それこそ〝非科学的〟な態度というべきでしょう。

近代の科学は物質文明の中で発達し、多大の貢献(こうけん)をしてきましたが、精神文明ことに人間の心に(かん)してはまったく手つかずの状態(じょうたい)です。

にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界(ほうかい)の真理を深く観達(かんたつ)して説かれた仏法を、人智(じんち)集積(しゅうせき)ともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは無理(むり)な話です。

それはあたかも、(しゃく)とり(むし)が自分の歩幅(ほはば)歩数(ほすう)で、空を飛ぶ鳥の飛距離(ひきょり)(はか)ろうとしているのに()ています。

もしどうしても、日蓮大聖人の仏法を道理と現証という科学的説明によって論証(ろんしょう)せよというのならば、釈尊の予証(よしょう)のとおり現実の(じょく)()に出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難に()いながら一切(いっさい)衆生(しゅじょう)成仏(じょうぶつ)せしめんと大慈悲をもって、大御本尊を()(けん)建立(こんりゅう)された事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜(かんき)と希望に()ちた人生を歩んでいるという実証こそ、〝科学的〟現実そのものではありませんか。

将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生(そせい)させ、豊かな生命力を涌現(ゆげん)させる仏法が、七百年間富士大石寺(たいせきじ)厳然(げんぜん)と伝えられ、未来(みらい)永劫(えいごう)にわたって全世界の民衆を救済(きゅうさい)得道(とくどう)せんと威光(いこう)をもって照らされている事実を知るべきでありましょう。

11 宗教は教団の(かね)もうけにすぎないのではないか

指摘(してき)のとおり昨今(さっこん)の宗教界の乱脈(らんみゃく)ぶりは目を(おお)うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済(きゅうさい)と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊(ほんぞん)書籍(しょせき)、守り(ふだ)祈祷(きとう)などを売りものにして、金儲けに専念(せんねん)している現状(げんじょう)です。

ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制(きょうせい)します。たとえば目を(わずら)っている人に対して、「目の玉は丸いでしょう。目の因縁(いんねん)を切るために、丸いもの(お金)を(そな)えなさい」、また足の悪い人には「足は〝おあし〟(お金)に通じるから、お金を上げればよくなります」などとまったく人をばかにした〝ごろ合せ〟や〝こじつけ〟で無知な人を(だま)しています。もっと悪質なものになると、「欲心(よくしん)があなたを不幸にしているのだから、欲心(よくしん)()てなさい。そのためにはあなたの財産(ざいさん)を神さまに(ささ)げることです」などと言葉(たく)みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。

こんな宗教は明らかに金儲けを目的としたものですから、近づかないほうが無難(ぶなん)です。

では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑽(けんさん)し、修行し、布教するためには、それを(まかな)資金(しきん)がなければなりません。

仏典(ぶってん)には、菩薩(ぼさつ)の修行として貧者(ひんじゃ)に物を与える布施(ふせ)(ぎょう)が説かれておりますし、衆生(しゅじょう)が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、(しゃっ)()累徳(るいとく)の行いであると賞賛(しょうさん)しています。供養とは自分にとって大切な宝を仏様に(ささ)げることであり、これには(くら)(たから)・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、「(くら)(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・御書1173㌻)と(おお)せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。

「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには数珠(じゅず)や経本、仏具(ぶつぐ)書籍(しょせき)などの費用は必要です。また御本尊に対する自発的な供養(くよう)や先祖回向(えこう)塔婆(とうば)供養(くよう)なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。

しかし、日蓮正宗では本山はじめ各地の末寺でも、賽銭箱(さいせんばこ)などはいっさいありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意(ほんい)(かな)わないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀(そうぎ)、法事などにおいても、〝お経料〟とか〝戒名料(かいみょうりょう)〟もありませんし、他宗のように供養の(がく)(さだ)めて請求(せいきゅう)することなどもありません。

日蓮正宗はひたすら正法を純粋(じゅんすい)に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立(かくりつ)目指(めざ)して実践(じっせん)している唯一(ゆいいつ)の宗団なのです。

12 自分の宗派だけを正しいと主張することは「エゴ」ではないか

「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己(りこ)主義(しゅぎ)という意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益(りやく)があると主張します。たとえば念仏宗では捨閉閣抛(しゃへいかくほう)といって他経を()てよ()じよと教えますし、禅宗では(きょう)()別伝(べつでん)といって釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心(いしんでんしん)で自宗のみに伝えられていると主張します。

宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒(いきょうと)との闘争(とうそう)にあけくれています。これらのすべては自らの優越性(ゆうえつせい)誇示(こじ)するところに(たん)(はっ)しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。

たしかに、周囲を無視(むし)し、道理(どうり)現証(げんしょう)を無視していたずらに自己の優越性(ゆうえつせい)のみを主張することは独断(どくだん)であり、()しきエゴの宗教というべきです。したがって、真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討(けんとう)し、その上で、〝()しきエゴ〟の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面のみを見て、〝宗教はすべてエゴだ〟と速断(そくだん)して宗教全体を否定(ひてい)することは、決して賢明(けんめい)な態度ではありません。

難解(なんかい)な宗教教義を判定するひとつの()(じゅん)として、原因があって結果が生じるというあたりまえの因果律(いんがりつ)立脚(りっきゃく)しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源(きげん)は神が土の(ちり)から(つく)り出したものだといいますが、その神は(だれ)によって作られたかという点は説いておりません。神道(しんとう)でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については何の説明もありません。仏教においてはじめて〝三世(さんぜ)にわたる因果律〟を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が()(みょう)依止(えし)する宗教が不完全なまま民衆に信仰と尊崇(そんすう)を呼びかけることこそ〝悪しきエゴ〟というべきです。

仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら機根(きこん)衆生(しゅじょう)の性格と心)を調養(ちょうよう)し、最後にもっとも完全で功徳力(くどくりき)のある法華経を出世(しゅっせ)本懐(ほんがい)(目的)として説き顕わしたのです。

これを釈尊自身も法華経のなかで、

「私が今まで説いてきた経典は数え切れないほどである。過去に(すで)に説いたもの(已説(いせつ))、今説いたもの(今説(こんせつ))、将来説くであろうもの(当説(とうせつ))、それらの中でこの法華経がもっとも深い教えである」

(法師品第十・開結325㌻取意)

と、法華経がもっとも(すぐ)れたものであることを主張しています。

日蓮正宗では、正法によって衆生(しゅじょう)救済(きゅうさい)を願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的(ふへんてき)な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪なりと主張しているのです。

13 世界平和を説く宗教が他の宗教を攻撃(こうげき)して(あらそ)うことは自語相違(じごそうい)ではないか

平和といえばその反対が戦争であることは(だれ)にでもすぐ思い()かぶでしょう。

戦争とはいうまでもなく国と国が武力をもって争うことです。これを縮小(しゅくしょう)した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益(りえき)欲望(よくぼう)(エゴ)のみを()たそうするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒(ふんぬ)による場合があります。これを瞋恚(しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。その外に高慢心(こうまんしん)猜疑心(さいぎしん)が争いのもとになることもあります。

国家(かん)の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有(ぐゆう)している貪瞋(とんじん)()三毒(さんどく)、あるいは慢疑(まんぎ)を加えた五悪心(ごあくしん)の作用に起因(きいん)します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法(まっぽう)といって、劫濁(こうじょく)(時代・社会そのものの(みだ)れ)、煩悩濁(ぼんのうじょく)(苦しみの原因となる貪瞋癡などの迷い)、衆生濁(しゅじょうじょく)(人間の心身両面にわたる(よご)れ)、見濁(けんじょく)(思想の狂いや迷乱(めいらん))、命濁(みょうじょく)(生命自体の(にご)りや・短命)の五濁(ごじょく)が強大となって、いたるところで争乱(そうらん)(さつ)りくが絶えまなく行われる時(闘諍(とうじょう)堅固(けんご))と予言されています。

たしかに人命軽視(けいし)刹那的(せつなてき)欲望(よくぼう)による犯罪(はんざい)、そして自己中心の風潮(ふうちょう)は現代社会の病巣(びょうそう)として深刻(しんこく)な問題となっています。これらの社会問題が貪瞋癡の三毒という(たん)に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから表面的な道徳(どうとく)教育や、倫理(りんり)訓話(くんわ)などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらを(おか)してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を()えて、人間生命の奥底(おうてい)から()り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが()み、戦火が(しず)まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛(ごうじょう)の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。

質問のように戦争と破邪(はじゃ)顕正(けんしょう)折伏(しゃくぶく)とを同一()して自語相違(じごそうい)だといわれるのは、戦争を表面の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相(せそう)を正し、仏法によって浄化(じょうか)し、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)(誰人も仏になる可能性をもった(とうと)い存在ということ)自利(じり)利他(りた)(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽(しんぎ)厳格(げんかく)に区別し、選択(せんたく)しなければなりません。

私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃(こうげき)するのではなく、あくまでも邪悪(じゃあく)な宗教や低級な思想を平和を破壊(はかい)するものとして指摘(してき)論破(ろんぱ)するものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の()(ちが)いがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益(むえき)だと非難しているようなものです。

本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。

14 南無妙法蓮華経と唱えるなら、どれも同じではないか

「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈(かいしゃく)すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(きえ)(南無)するという意味です。

日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極(きゅうきょく)の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。

しかし日蓮大聖人は、

(いま)日蓮が唱ふる所の題目は前代に(こと)なり、()(ぎょう)化他(けた)(わた)りて南無妙法蓮華経なり」

(三大秘法禀承事・御書1594㌻)

(おお)せられ、大聖人が建長五年四月二十八日に唱え(いだ)された南無妙法蓮華経は、いまだ(だれ)も唱えなかったものであると説かれています。

さらに大聖人は、

「仏の()(こころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」

(経王殿御返事・御書685㌻)

とも、

(かれ)(だつ)(これ)(しゅ)なり。彼は一品(いっぽん)二半(にはん)、此は(ただ)題目の五字なり」

(観心本尊抄・御書656㌻)

とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは(こと)なったものであると示されています。

では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、

無作(むさ)三身(さんじん)とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と()ふなり」

(御義口伝・御書1765㌻)

と説かれています。すなわち無作三身(宇宙(うちゅう)法界(ほうかい)を我身・我体として(さと)られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名(ぶつみょう)を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人にほかなりません。これについて、さらに、

「本尊とは法華経の行者の一身の当体(とうたい)なり」

(御義口伝・御書1773㌻)

と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切(いっさい)衆生(しゅじょう)済度(さいど)する本門の本尊であると示されています。

したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人の当体(とうたい)なのです。

大聖人は、

「本尊とは(すぐ)れたるを用ふべし」

(本尊問答抄・御書1275㌻)

と私たちに本尊の大切さを教えられています。

いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派(かくは)のように、釈尊(しゃくそん)(ぞう)(おが)んだり、竜神(りゅうじん)大黒天(だいこくてん)あるいは稲荷(いなり)に向かったり、さらには霊友会(れいゆうかい)立正(りっしょう)佼成(こうせい)(かい)のように死者の戒名(かいみょう)に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えに(そむ)悪業(あくごう)を作ることになります。

人でも自分と(ちが)った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼(ひれい)にあたると同じ理屈(りくつ)です。

せっかく日蓮大聖人を(あが)め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意(ごしんい)(かな)った正しい御本尊に向って唱題すべきです。

15 日蓮聖人の史跡(しせき)(おとず)れ参拝をしているから充分だ

日蓮大聖人は、

「日蓮を用ひぬるともあしくうやま()はゞ国亡ぶべし」

(種々御振舞御書・御書1066㌻)

(おお)せられています。

この言葉の意味は、日蓮を尊敬し(あが)めても、正しく(うやま)わなければ国が亡ぶ、というのです。

一家が()しく敬えば、一家が(ほろ)び、個人が正しく敬わなければ個人が亡ぶという道理(どうり)です。

では日蓮大聖人を正しく敬うとはどういうことでしょうか。

御書には、

「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」

(開目抄・御書577㌻)

とも、

「今日本国の高僧()も南無日蓮聖人ととな()えんとすとも、南無(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん」

(撰時抄・御書867㌻)

とも(しる)され、(みずか)ら末法の一切(いっさい)衆生(しゅじょう)主師親(しゅししん)であり人々が日蓮大聖人に帰依(きえ)し、「南無日蓮大聖人」と礼拝(らいはい)すべきことを説かれています。

そして、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」

(御義口伝・御書1773㌻)

とも、

「此の曼茶羅(まんだら)()く能く信じさせ給ふべし。(中略)日蓮がたまし()ひをすみ()にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」

(経王殿御返事・御書685㌻)

とも仰せられ、末法の教主日蓮大聖人の当体(とうたい)魂魄(こんぱく)のすべてを書き(とど)められた曼荼羅御本尊を信じ拝するよう教えられています。

曼荼羅のなかでも、弘安二年十月十二日に図顕(ずけん)された一閻(いちえん)()(だい)(そう)()の大曼荼羅が根本中の根本たる本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の御本尊なのです。

また大聖人は、

檀戒(だんかい)(とう)五度(ごど)制止(せいし)して一向(いっこう)に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念(いちねん)信解(しんげ)初随(しょずい)()気分(けぶん)()すなり。(これ)(すなわ)()の経の本意なり」

(四信五品抄・御書1113㌻)

と仰せられているように、末法の仏道修行は布施(ふせ)戒律(かいりつ)などの修行を捨てて、ひたすら本門戒壇の大御本尊に向かって唱題することなのです。これが大聖人を正しく敬うということであり、本意に(かな)う信心なのです。そのためには、本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の精神を正しく清浄(せいじょう)に伝えている日蓮正宗の信徒として、信心しなければならないのです。

次に史跡についていえば大聖人の本意に叶う正しい信仰を実践(じっせん)したうえで、ゆかりの地を(たず)往時(おうじ)をしのぶことは悪いことではありません。

しかしここで注意すべきことは、まず現在、大聖人の史跡として宣伝(せんでん)されているもののなかで、鎌倉時代からそのまま保存されている建物はほとんどありません。また場所も長い時間の経過の中で地震(じしん)津波(つなみ)などによって地形が変化したり、史跡がわからなくなったものがほとんどです。そしてなによりも大切なことは、史跡の真偽(しんぎ)を別として、そこにある寺院が大聖人の精神を正しく受け()ぐ日蓮正宗の寺院なのか、それとも大聖人の精神に反した邪宗寺院なのかということです。

もしあなたが史跡めぐりだといって大聖人の精神から(はず)れた日蓮宗の寺院に(もう)でるならば、それこそ大聖人を「悪しく敬う」謗法(ほうぼう)(おか)すことになるのです。