1 信仰と名のつくものはなんであろうときらいだ

私たちは、日常さまざまな判断(はんだん)をしながら生きています。善悪(ぜんあく)を考えて決断しなければならないときもありますし、(そん)(とく)かを考えて行動したり、他人の評価(ひょうか)考慮(こうりょ)して行動する場合もあります。

幼児(ようじ)の頃は(だれ)でも、善悪や他人の評価などにとらわれず、好きかきらいかという自分本位の感情で判断し、笑ったり泣いたりします。しかしその幼児も成長し、責任ある社会人になると、好き嫌いの感情による判断だけでなく、理性による判断、つまり物事(ものごと)道理(どうり)や善悪・利害などを考えて行動するようになります。人間誰しも好ききらいの感情は生まれながらに持っており、どんな人でも好きになれない食物(たべもの)飲物(のみもの)は必ずあるでしょうし、一般に〝医者嫌い〟を自称(じしょう)する人も多いようです。しかし、医者がきらいだといっても、健康を(そこ)ねたり生命にかかわるケガをしたときは、身体を守るために医者にかからなければなりません。

私たちの周囲には、好ききらいで判断してよいことと、その反対に、さきほどの医者ぎらいのたとえのように、理性で正邪(せいじゃ)・善悪・得失(とくしつ)用否(ようひ)などを決定しなければならないときがあるわけです。

これをとり違えて(もち)いたり、すべて好ききらいの感情で判断することは、きわめて幼稚(ようち)な行動であり、危険なことでもあります。

もし、信仰が趣味(しゅみ)道楽(どうらく)あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。しかし、正しい宗教とは、苦悩(くのう)に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚(りっきゃく)した真実の幸福を獲得(かくとく)する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生(そせい)させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。

人生を木に(たと)えるならば、正しい信仰は根幹(こんかん)に当たるといえるでしょう。なぜなら正しい信仰が、人生の根源の力になるからです。

ですから、信仰を(たん)に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明(けんめい)な方法ではありません。

私たちの人生は、いつ、どこで(まく)()じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたかも羅針盤(らしんばん)(そな)えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。

どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を(かたむ)けて信仰が必要なことを知ってください。

素直(すなお)な心で仏の教えに()れるとき、あなたは人生でもっとも大切な宝を、今まで忘れていたことを痛感(つうかん)するでしょう。

2 信仰は理性をマヒさせるアヘンのようなものではないか

「宗教はアヘンだ」と言ったのは、かの有名なマルクスです。彼は、当時の退廃(たいはい)的なキリスト教の姿を見て、宗教は人間にとって現実的な矛盾(むじゅん)の解決になるものではなく、むしろ現実から目をそむけさせて、()りに一時的な心の安らぎを与えているにすぎないと指摘(してき)したのです。

宗教とは、本来(ほんらい)一個の人間がいかに生きるかというところに、その目的があるのですが、中世のキリスト教を初めとする過去の宗教の歴史では、むしろ、宗教のために個人が翻弄(ほんろう)されてきたというのが事実です。宗教のために人が翻弄された時ほど、悲惨(ひさん)なことはありません。そこではすべての人間性と理性は神の名のもとに否定(ひてい)され、人間は神の奴隷(どれい)でしかなかったのです。マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったのは、このような暗い、人間性を無視(むし)した宗教を指したものでした。

キリスト教に限らず教条主義的(きょうじょうしゅぎてき)な宗教は、あらゆることを神の言葉に服従(ふくじゅう)することだけを強調して、善良な信徒の理性をマヒさせるものなのです。

しかし、すべての宗教が同様(どうよう)であるということではありません。正しい法義と正しい本尊を説き明し、ひとりひとりの人間の生命力を蘇生(そせい)させ力強く人生を開拓(かいたく)し、真の幸せな境涯(きょうがい)を築くという、宗教本来の目的を説き続けてきた唯一(ゆいいつ)の宗教があります。

それが日蓮大聖人の仏法です。

大聖人は、

「御みや()づかい()を法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生(ちせい)産業(さんごう)は皆実相(じっそう)(あい)違背(いはい)せず』」

(檀越某御返事・御書1220㌻)

と説かれています。

すなわち、仏法とは世間(せけん)(ほう)とかけ(はな)れたものではなく、治生産業に励み、よき人材となって成長していくことを目的としているのです。

日蓮大聖人の仏法を(たも)つ者は、この精神を根本として、社会の中にあっても積極的(せっきょくてき)に行動し、あらゆる分野で活躍(かつやく)しています。

人生は、幸・不幸・悲・喜こもごもです。しかし、大聖人の仏法を信心する者は、たとえ(ぎゃっ)(きょう)の中にあっても、信仰の功徳によって、苦難にも勇敢(ゆうかん)に立ち向かい、諸難を乗り()えていけるのです。

真実の宗教は、人間の意識を(しょう)(きょく)(てき)にするものではなく、むしろ、信心の力によって不幸をも克服(こくふく)する強い生命力を発揮(はっき)させ、積極的に生きる力を(はぐ)くむものなのです。弱い人間が信仰に逃避(とうひ)して、つかの()の安らぎを求める、というようなものではけっしてありません。

アヘンのごとき(じゃ)(きょう)にまどわされることなく、(きゅう)(どう)の心を開き、勇気を持って真実の正法に帰依(きえ)し、その(りょう)(やく)を口に(ふく)み、正法を(あじ)わうときにこそ、真の人生のはつらとした生き甲斐(がい)を見い出すことができるのです。

3 信仰はもうこりごりだ

現在、日本にはおよそ500の宗教団体があります。

そのなかには、古い歴史(れきし)伝統(でんとう)をもつ宗教から、最近生まれた宗教まで、多種多様(たよう)です。そして、歴史を誇る宗教は、その伝統と古めかしい教義を説き、また各種の新興宗教は、それぞれの人の耳目(じもく)(まど)わすような、小さな通力(つうりき)利益(りやく)を説いて、一人でも多くの人を引きつけようと懸命(けんめい)です。

「信仰はもうこりごりだ」という人は、これらの宗教に一度ならず足を()み入れ、そのつど、願いも(かな)わずむなしい思いを味わった人であろうと思います。

宗教は人の心と生活の全体に(えい)(きょう)を持つものですから、一歩まちがえて邪教にのめり込んだら、どんなに立派な(こころざし)を立てても、その結果は(ぎゃく)になってしまうのです。

しかも、(よこしま)な宗教に一度落ち込んだら、なかなかはい上がることができません。なによりも恐ろしいことは、悲惨(ひさん)なその姿に、本人自身がいまだに何も気付かず、不幸だとも思っていないことです。

このように、個人の理性をマヒさせるのが、邪教のもっとも恐ろしいところなのです。

今も非常に多くの人々が、その麻薬(まやく)のような利益(りやく)(しゅう)(ちゃく)して、()けられないでいるのですが、何とかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然でしょう。

しかし、だからといって、真実の宗教も邪な宗教も、十把一(じっぱひと)からげにして、すべてを否定することは、あまりにも軽率(けいそつ)()ぎます。

それは、あたかも一部の警察官の不祥事(ふしょうじ)をもってすべての警察官がそうだと決めつけたり、何人かの悪徳(あくとく)医者がいたからといって、それですべての医者を悪徳呼ばわりし、医者を拒否(きょひ)する()()ています。

日蓮大聖人は、

「人(みち)をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の(つみ)となるべしや」

(撰時抄・御書835㌻)

(おお)せられています。過去にあなたが(よこしま)な宗教にとらわれ、(あざむ)かれてきた原因は、あなたに正法正義を選択(せんたく)する力がなかったからなのです。ですから邪教に(まど)わされた(みずか)らの不明(ふめい)(かえり)みて、真実の宗教と邪教とを識別(しきべつ)する方途(ほうと)を知る必要があります。

大聖人は、宗教の正邪浅深(せんじん)を知る物差(ものさし)として、

「法門をもて(じゃ)(しょう)をたゞすべし。利根(りこん)通力(つうりき)とにはよるべからず」

(唱法華題目抄・御書233㌻)

と教えられています。

つまり、仏法の正邪は、耳目(じもく)(まど)わすような通力(つうりき)によって決めてはならない。あくまでも、人々を(きゅう)(さい)できる道理(どうり)と働きと力を教え(さず)ける法門によって決めなさい、と説かれています。

さらに大聖人は、

「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と(しょう)(もん)とにはすぎず。又道理証文よりも(げん)(しょう)にはすぎず」

(三三藏祈雨事・御書874㌻)

と説かれています。

すなわち、正しい仏法を判定するためには、正しい救済の道理と、明確(めいかく)な仏の文証と、実際の功徳の現証に裏付(うらづ)けられていなければならないと説かれています。

この(さん)(しょう)(文証・理証・現証)によって裏付けられ、いかなる時代の人々の理性と(じょう)(しき)にも充分対応(たいおう)し、真実に人を救う力のある宗教が、日蓮正宗として現実に存在するのですから、「もうこりごりだ」などと言って()げていては、ほんとうの幸せをつかむことはできません。

4 宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか

一般に、どのような(きょう)(ぐう)にあっても、人間の幸不幸は所詮(しょせん)その人の心の持ち方・考え方によって決定されるのだから、宗教に(たよ)るよりも、心に〝自分は幸せだ〟と思うことが大切である、という考え方があります。

このような考え方は、一見(いっけん)もっとものようですが、現実的(げんじつてき)には人間本来(ほんらい)の「心」を知らない理想論(りそうろん)であり、これを実行するとなると危険(きけん)がともないます。なぜかといいますと、私たちの心は時にふれ、(おり)にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、(いか)り、そして安らぐというようにさまざまに変化(へんか)します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度(たいど)(あら)われます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の(かん)(きょう)世界(これを(えん)といいます)に()れることによって、私たちの生命(せいめい)(身心(りょう)(めん)にわたる人間全体の働き)に、本来潜在(せんざい)的に(そな)えている十界(じっかい)三千(さんぜん)といわれるさまざまな働きの一部分が(しゅん)(かん)瞬間に反応(はんのう)するからなのです。

私たちの(うち)なる心と外界(げかい)(むす)ぶ窓口が(げん)()()(ぜつ)(しん)五根(ごこん)です。外界の色彩(しきさい)物質(ぶっしつ)眼根(げんこん)(とお)して心に(つた)えられます。音は耳根(にこん)により、(かお)りは鼻、味は舌、冷暖(れいだん)(じゅう)(ごう)などは身体の皮膚(ひふ)感覚(かんかく)によって心に伝達(でんたつ)されます。これらの(じょう)(ほう)を受けた心(意根(いこん))は、これを識別(しきべつ)して好悪(こうお)喜怒(きど)などの反応(はんのう)を生ずるわけです。

人間は自分の心に(かな)ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的(ほんのうてき)なものであり、きわめて当然のことです。

それを「どのような場合でも幸福を感じ続けよ」と心に(きょう)(せい)することは、あたかも身に危険を感じても安全だと思えということと同じであり、黒いものを見て白いと思えということと同じです。このようなことは現実に、正常な人ができるわけがありません。「心」は目に見えませんが、肉体と同様(どうよう)疲労(ひろう)倦怠(けんたい)もあれば許容(きょよう)限界(げんかい)もあるのです。もし身体を(きた)えていない病人に、いきなり何十キロもある荷物を背負(せお)わせたとしたらどうでしょう。おそらく立つことはおろか、大けがをしてしまうでしょう。同じように心の鍛錬(たんれん)・修行を()んでいない人に対して、「どのような(きょう)(ぐう)にあっても、いかなる(えん)(せっ)しても、自分は幸福だと思わなければいけない」と強要することは、(きょく)()の心理的(じゅう)(あつ)(くわ)えることになり、ついには()(じゅう)人格(じんかく)精神(せいしん)分裂(ぶんれつ)(しょう)などを引き起こすことにもなりかねません。

このような、人間生命の本質を知らない誤った幸福感は、一個人の主義・主張にとどまらず宗教の教義の中にも見られます。その一例を()げますと、〝心によって病気が起きるのだから、(なお)ったと思えば病気が治る〟と説く「(せい)(ちょう)(いえ)」や、〝(なんじ)(てき)を愛せよ〟などと()(じゅん)した美辞(びじ)麗句(れいく)を並べる「キリスト教」があります。

これらは、宗教本来の利益(りやく)によって現実に救済する力もなく、(しゅ)(じょう)加護(かご)する力もなく、(たん)に衆生に対して〝思いこみ〟を()しつけているだけの宗教といわざるをえません。

これに対して真実の宗教とは、宇宙法界(ほうかい)の現証と真理(しんり)のすべてを達観(たっかん)した本仏によって説き(しめ)された教えであり、広大な功徳力(くどくりき)(そな)えた本尊を信じ、修行を積むことによって、(せい)(じょう)にして不動(ふどう)の心(法身(ほっしん))を発揮(はっき)し、深い智慧(ちえ)慈愛(じあい)にみちた人間性(般若(はんにゃ))を開発(かいはつ)し、人生を自由自在に遊楽(ゆうらく)解脱(げだつ))させる働きがあるのです。このことを日蓮大聖人は、

「法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)(ごう)()三道(さんどう)、法身・般若(はんにゃ)解脱(げだつ)三徳(さんとく)と転じ云々」

(当体義抄・御書694㌻)

(おお)せられています。

真実の幸福とは、観念的な〝思いこみ〟や〝ひとりよがり〟ではなく、正しい本尊によって自己(じこ)の内面から健全(けんぜん)な生命を涌現(ゆげん)させ、修行によって深い智慧(ちえ)と苦難を克服(こくふく)する心を(やしな)い、仏力・法力によって守護される安心立命(あんしんりつめい)(きょう)(がい)をいうのです。

何物にもくずされない絶対的幸福、それは正しい宗教によってはじめて()られることをよく知るべきです。

5 信仰は意志の弱い人間のすることだ

意志の強い人とは、ひとつの目的に向かって、種々の(しょう)(がい)があろうとも、それを乗り越えて行く努力ができる人のことをいい、目的に向かうことは同じでも、()(ちゅう)挫折(ざせつ)してしまったり、またひとつのことに長続(ながつづ)きしない、(うつ)り気な人が意志の弱い人といえると思います。

しかし、目的の違いや(かん)(きょう)の違いによって難易(なんい)度合(どあ)いもありますから、いちがいに、あの人は意志の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。

また、意志が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化してゆくものです。周囲の環境の変化によって変わってゆくのが、人間の心なのです。

したがって、その変わりやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動してゆくならば、それは、ちょうど羅針盤(らしんばん)のない船のように、どこへ行きつくのか見当(けんとう)もつきません。(つね)右往(うおう)左往(さおう)していなければなりません。

日蓮大聖人は、

「心の()とはなるとも心を師とせざれ」

(曽谷入道殿御返事・御書794㌻)

と、自分の心をすべての()りどころの基盤(きばん)とするものではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。

なかには、何事(なにごと)に対しても消極的で、(つね)に何かに(たよ)っていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意志の弱い人間のすることだ」という人もいます。

しかし、たとえ意志が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である大聖人の教えによって種々の困難(こんなん)克服(こくふく)していくならば、これほどすばらしい人間改革(かいかく)の道はありません。

事実、意志の弱さや、(びょう)()や、さまざまな宿(しゅく)(ごう)による困難を、妙法の信仰によって乗りこえた体験を持った人たちが、現在社会のあらゆる分野で活躍(かつやく)し、大聖人の仏法によって、大きくその(きょう)(がい)を開いています。

このような現実社会の中で人材として蘇生(そせい)していく姿こそ偉大(いだい)な仏法の力を(しょう)(めい)するものであり、信仰は意志の弱い人間がすることだときめつけるのは、とんでもない(あやま)りです。

6 信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか

仏法は、人間が本質的(ほんしつてき)(ちょく)(めん)しなければならない苦悩(くのう)を解決するために説き明かされたものですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に(はい)ることは当然(とうぜん)のことです。

信仰を求める動機(どうき)は、主として直接的に日常生活の()(しょう)となる病気や経済苦が()げられますが、そのほかに最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなっています。

人間は(だれ)でも、苦しみや困難にあったとき、はじめてその原因を考え、よりよい解決方法と(ふたた)び失敗しない方法について、思いめぐらすのではないでしょうか。

事実、自分はこれでよしと思って進んできたが、その結果が思わしくなく、さまざまな問題が起きて身動きができなくなって、はじめて我が身をふり返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台(どだい)として正しい信仰が必要であったことに気付(きづ)いたという人も多いのです。

また、日蓮大聖人は、

(やまい)によりて道心(どうしん)はおこり候か」

(妙心尼御前御返事・御書900㌻)

(おお)せられ、(びょう)()が信仰心を起す原因になるとも説かれています。

しかし、入信の動機がいずれにせよ、それによって正しい教えにめぐり会い、(しょう)(きょう)(正しい本尊)に(えん)することに重大な意義があるのです。

妙楽大師は、

縦使(たとい)発心(ほっしん)真実ならざる者も(しょう)(きょう)に縁すれば功徳(くどく)なお多し」

(聖典833㌻)

と、発心の動機がどうであっても、正境に縁することが大きな功徳になると説いています。

入信する時の一面だけを見て、やれ病人だ貧乏人ばかりだ、と非難(ひなん)することは、仏法の功徳力(くどくりき)を知らない者の(おろ)かな行為(こうい)といわざるをえません。

大切なことは、いかに多くの人が正しい仏法によって病苦や経済苦を克服(こくふく)し、力強い人生を築いているかという現実を知ることであり、いかなる(きょう)(ぐう)の人も必ず幸せになっていく日蓮大聖人の仏法が存在していることを知るべきです。

大聖人は、

「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念(きねん)せしめ給へ。何事か(じょう)(じゅ)せざるべき」

(経王殿御返事・御書685㌻)

と仰せられています。

さらに法華経には、

()(じょう)宝聚(ほうじゅ)を求めざるに(おのずか)()たり」

(信解品第四・開結199㌻)

と説かれています。これは無上の宝である成仏の(きょう)(がい)は自ら意識して求めずとも、正境に縁することによって自然に得られるというのです。また伝教(でんぎょう)大師(だいし)は、正法を信じ行ずる道心こそ真実の国の宝であると(たた)えています。

この道心の動機が病気であっても、経済苦であっても、なんら()ずべきことではありません。むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入り口ともなるのです。

7 信仰は本人の自由意志によるべきで、他人に強要することはよくない

たしかに信仰は他人に強要すべきものではありません。また、他人に強要されてできるものでもありません。

日蓮正宗でいうところの折伏(しゃくぶく)とは、人に信仰を強要することではなく、日蓮大聖人の教えの(とうと)さと、(みずか)体得(たいとく)した信心の感動を、一人でも多くの人に語り伝え、喜びを(わか)ち与えたいと思う慈悲(じひ)(しん)発露(はつろ)なのです。

たとえば、病気の子供が(にが)いからといって薬を飲まない時、親はそのままにしておくでしょうか。無理をしてでもその子に薬を飲ませるのではないでしょうか。

折伏とは、まさにこれと同じです。なぜなら、日蓮大聖人の仏法は、大良薬(りょうやく)(たと)えられ、人間が生きてゆくための真理が説かれているからです。

真実の仏法を知らない人は人生の真の目的を知ることもなく、正法の功徳を受けることもできず、無味(むみ)乾燥(かんそう)の一生を(むな)しく送ることになります。

そのようなことのないよう、真実の仏法を一人でも多くの人に伝えたいと思う慈悲の心が、折伏という行動として(あら)われてくるのです。

また、親なればこそ、我が子にやっていいことと、やってはいけないこととを(きび)しくしつけるように、折伏とは正邪のけじめを正しい仏の教導(きょうどう)にしたがって(さと)し示すことでもあります。

ですから、折伏は人に信仰を強要することではなく、人生の真理を伝え、喜びを(とも)に分かちあいたいという大きな慈悲(じひ)(ぎょう)なのです。

8 自分は忙しくて時間がないので信仰ができない

現代はたしかに(いそが)しい時代です。いまや国民のすべてが時間との(たたか)いにあけくれているといっても過言(かごん)ではありません。

駅の売店で牛乳とパンを流し込んで会社に(いそ)ぐサラリーマンや、何秒と(ちが)わない先を急ぎ、無理な追い越しのために死亡事故を引き起こしている車社会の様相(ようそう)などは、まさに時間地獄(じごく)とでもいいたいほどです。

また、家事・育児(いくじ)のほかにパートで働く主婦、学校が終わるや学習(じゅく)に走る子供たち、定年後も生活のために働く老人など、あらゆる人々が働きバチのように目まぐるしく、時間に追われるように生活しているのが現実です。

これは、(だれ)もが現代社会の中でよりよい生活を求め、社会のスピードに(おく)れまいとする心の表れといえましょう。

しかし、どんなに忙しい人でもまったく睡眠(すいみん)をとらないわけではないでしょうし、食事の時間や新聞を読む時間ぐらいはあるはずです。

たいていの人は「忙しい忙しい」といいながら、友だちとのおしゃべりや晩酌(ばんしゃく)、テレビなどで一時間や二時間を(つい)やしているのではないでしょうか。

これは本当に時間がないのではなく、心にゆとりがないということであり、忙しいと感ずるかどうかは、その人の身体(からだ)と心の許容(きょよう)(りょう)の問題であるといえましょう。

ですから「時間はできるものではない、時間は(みずか)ら作るものだ」という言葉も、自分自身の心にゆとりを持つことを教えているのです。

もし、身心の許容量が小さく、通常の生活で(せい)いっぱいの人や、仕事と家庭以外には手が(まわ)らないという人がいたならば、このような人こそ仏法によって色心(しきしん)(肉体と精神)両面を錬磨(れんま)し、力強い生命力と豊かな人間性をとり(もど)す必要があります。

また、もし本当に寝る時間もないほど忙しい人がいるならば、その人は自分の苦労や努力がはたして正しい方向にすすんでいるのかどうかを考えるべきです。

せっかく()(こな)にして努力しているのに、正しい人生設計も明確な目的も持たないならば、「骨折(ほねお)(ぞん)のくたびれ(もう)け」になってしまいます。

人間としてもっとも大切な大目的を教え、人生のもっとも正しいあり方、考え方を説き示したものが、仏法です。この仏法を信じ行ずることによって、自分の生命の中に英知(えいち)と力が(そな)わってくるのです。

たとえていえば、間違(まちが)いのない標識(ひょうしき)と、どんな悪路(あくろ)や坂道でも乗りこえる車があって、はじめて目的地に到達(とうたつ)するように、正しい教えと正しい信仰によって、人生の苦労や努力が(みの)るのです。

ですから、忙しい人ほど人生の根本の指針(ししん)として正しい信仰が必要であることを知るべきです。

9 信仰は老人がするものではないのか

「信仰は年寄(としよ)りがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解(むりかい)と老人に対する偏見(へんけん)(ひそ)んでいるように思われます。

正しい信仰が人生にもたらす作用はさまざまなものがあります。その中の主なものを()げてみますと、

  1. 正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
  2. 日々の信仰修行によって身心ともに健全(けんぜん)な人間として鍛錬(たんれん)される。
  3. 精進心(しょうじんしん)すなわちこつこつとたゆまぬ努力を()み重ねる心が(つちか)われる。
  4. 敬虔(けいけん)な心・感謝の心・思いやりの心が(やしな)われる。
  5. 日常生活が信仰の功徳力(くどくりき)によって仏天(ぶってん)加護(かご)される。

などがあります。

このように人生に大きな意義をもつ信仰が、若い人と無縁(むえん)であるというのはまったく(まと)はずれな暴論(ぼうろん)というべきです。

むしろ、「鉄は(あつ)いうちに(きた)えよ」という言葉どおりに、人生の基礎(きそ)となり土台(どだい)となる若い時こそ、正しい宗教を信仰し修練(しゅうれん)()むべきなのです。

ビルを建てる場合でも地中(ちちゅう)深く打ち込まれた盤石(ばんじゃく)な基礎があれば、その上に立派(りっぱ)な高層建築を建てても微動(びどう)だもしません。これと同じように、若い時に目先の欲得(よくとく)や表面的な楽しみに流されることなく、信仰を根本としてしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。

また本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮(ふりょ)災難(さいなん)にまき込まれるかわかりません。一瞬の事故によって一生を(だい)なしにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、やはり仏天の大きな力によって日々(ひび)守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件(ようけん)といえましょう。

たしかに低級思想や迷信(めいしん)に走る宗教、あるいは形骸化(けいがいか)した既成(きせい)宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避(きひ)しているというのが現実です。

しかし真実の生きた宗教は、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにも(くず)れない安穏(あんのん)にして自由な境涯(きょうがい)を確立させるところに、その目的があるのです。

また、道を(こころざ)すことに早いということはありません。青年・壮年(そうねん)熟年(じゅくねん)()わず正法に帰依(きえ)することは幸福の絶対条件ですが、健全な苗木(なえぎ)大木(たいぼく)名木(めいぼく)に成長していくように、伸びゆく青年時代に信仰に励むならば、それだけ人生の大きな力となり、(きょう)()(いしずえ)となるのです。

現在、日蓮正宗には、多くの青年が自己(じこ)の確立と社会平和のために情熱をもって信心修行に励んでいます。

10 信仰をしていても悪い人がいるのではないか

信仰していない人は、よく「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰する気にならない」と言います。

「悪い人」といっても、悪い考えに()まった人、悪い(くせ)を持った人、自分で気付かずに悪業(あくごう)(おか)す人などさまざまです。

釈尊は、現代の世相を「()(じょく)悪世(あくせ)」と予言(よげん)しました。五濁とは①劫濁(こうじょく)(社会・環境に悪い現象が起きる)、②煩悩(ぼんのう)(じょく)(いか)りや(むさぼ)りなどの悪心にとらわれた本能の(まよ)い)、③衆生濁(しゅじょうじょく)(人間そのものの(にご)り)、④見濁(けんじょく)(思想や考えの(みだ)れ)、⑤命濁(みょうじょく)(生命自体の(にご)り、人命軽視(けいし)など)をいいます。

たしかに現代社会は科学技術の発展とは逆に、人間性は歪曲(わいきょく)され、貧困(ひんこん)になっていますし、社会全体の混迷(こんめい)汚染(おせん)はますます深刻(しんこく)になっています。まさしく釈尊の予言どおりの世相になっています。

社会も時代も、そして個々の人間まで汚染されつつある現代は、悪で充満しているといっても過言(かごん)ではありません。そのような中で、健全な人生を築くために発心(ほっしん)して信仰の道に入っても、始めのうちは過去からの宿習(しゅくじゅう)因縁(いんねん)によって、また縁にふれて悪心を起こしたり、他人に迷惑をかける人もいるかもしれません。

また世間で(つみ)(おか)した人が、最後の更正(こうせい)のよりどころとして信仰を(たも)ち、努力することも宗教の世界なればこそ当然であります。

このような場合でも、正しい宗教によって信仰を実践(じっせん)していくうちに、悪い(さが)()ち切り、煩悩を浄化(じょうか)し、六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)になっていくのです。日蓮大聖人は信心の功徳(くどく)について、

「功徳とは六根清浄(ろっこんしょうじょう)果報(かほう)なり。所詮(しょせん)(いま)日蓮()(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」

(御義口伝・御書1775㌻)

と仰せです、すなわち正しい教えである南無妙法蓮華経を信じ唱える者は、必ず六根((げん)()()(ぜつ)(しん)())のすべてが清浄な働きになると教えているのです。

信仰の正当性を知るために大切なことは、それを信ずる人の姿を見て判断するのではなく、信仰の対象(たいしょう)である本尊や教義の正邪をもってその価値(かち)を決しなければならないのです。釈尊は、

「法に()りて人に依らざれ、()に依りて()に依らざれ」

涅槃経(ねはんぎょう)

と説いています。

信仰をしている人を部分的な表面や風評(ふうひょう)をもって批判することは(だれ)にでもできるでしょう。しかし批判者(ひはんしゃ)にはそれ以上に()るものはなにもないのです。むしろ、正法の信者を誹謗(ひぼう)するという大きな罪を作っているかもしれません。

一方、正しい信仰を根本として、過去の悪業や弱い自分と(たたか)いながら仏道に精進(しょうじん)している人は、当初(とうしょ)(はずか)しい思いをするかもしれませんが、将来必ず目標に到達し、真実の幸福境涯を築き、周囲の信頼(しんらい)と尊敬を集めることができるのです。

もし万が一にも、正しい信仰を持ちながら平気で悪事をなすならば、その人は仏法に(きず)をつける罪によって仏罰(ぶつばち)を受けるでしょう。しかしそれもまた、その人を善導(ぜんどう)するための仏の慈悲(じひ)のあらわれであり、いかなる人も必ず正しい人生を(あゆ)むようになるのです。

11 宗教は狂信、盲信のすすめではないか

ここでいう「狂信(きょうしん)」とは、理性(りせい)を失い(われ)を忘れて狂ったように信ずることであり、「盲信(もうしん)」とは、ひとつの信仰に埋没(まいぼつ)し、わけもわからずむやみに信ずることです。

この狂信・盲信について三つの点から考えてみましょう。

まずはじめに数多い宗教、信仰のなかには明らかに教義として狂信・盲信をすすめているものがあります。たとえば霊媒信仰(れいばいしんこう)修験道(しゅげんどう)、あるいは(おど)る宗教などは忘我(ぼうが)(きょう)()(いた)ることが救いであり、理想であると説いています。また、キリスト教やイスラム教のなかには自宗に執着(しゅうちゃく)するあまり、教義の正邪ではなく、暴力やテロに(うった)える場合もあり、これも狂信のひとつといえましょう。

さらに念仏(ねんぶつ)(しゅう)などは「他の教典はすべて()てよ、()じよ、(さしお)け、(なげう)て」と、()の教典を読むことを禁じ、禅宗なども不立文字(ふりゅうもんじ)只管(しかん)打坐(たざ)(しょう)して文字による教義理解を否定し、他宗の善悪(ぜんあく)を知ることさえ、きらいます。

また、密教(みっきょう)やキリスト教のなかには、社会との交渉(こうしょう)()って、山奥(やまおく)閉鎖(へいさ)集団の中で生きることを()(じょう)の目的とするものもあります。

このように、他の宗派や社会と隔絶(かくぜつ)することを説く宗教を信ずるならば、他の宗教と比較することもできず、独善(どくぜん)的な信仰となります。

日蓮大聖人は、

迷妄(めいもう)の法に(ちゃく)するが故に本心を失ふなり」

(御講聞書・御書1858㌻)

と説かれ、誤った教えによって本心たる理性が(うしな)われ、狂信になると教えています。

また、

()()づ国土を(やす)んじて現当(げんとう)を祈らんと(ほっ)せば、(すみ)やかに情慮(じょうりょ)(めぐ)らし(いそ)いで対治(たいじ)を加へよ」

(立正安国論・御書248㌻)

(おお)せられ、社会の平和を実現させるためには、正法と邪法とをよくよく糾明(きゅうめい)して対応(たいおう)(きゅう)()しなければならないと説かれています。

第二には、信仰修行の上での狂信・盲信についていえば、日蓮正宗の信仰修行は理性(りせい)(うしな)う狂信でもなく、わけもなく信ずる盲信でもありません。

大聖人は、

「行学の二道をはげみ候べし。行学()へなば仏法はあるべからず」

(諸法実相抄・御書668㌻)

と、修行とともに教学、すなわち教義の研鑽(けんさん)が大切であると説かれています。

また、

(すい)とは不信なり、(かく)とは信なり。今日蓮()(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る時()(みょう)の酒()めたり」

(御義口伝・御書1747㌻)

と仰せられ、真実の正法を信じ唱題する時、()(みょう)という迷いの(きり)が晴れて真理に目覚(めざ)めるのであると教示されています。

第三には、現実の例証(れいしょう)をもっていえば、大聖人は、

「仏法を習ふ身には、必ず四恩(しおん)を報ずべきに(そうろう)か。」

(四恩抄・御書267㌻)

と、信仰者(しんこうしゃ)は人間の道として父母・衆生(しゅじょう)・国土、そして三宝(さんぼう)の四つの大恩を常に感じ、(むく)いるように教えられています。また、(しょく)()での(こころ)()として、

「御みや()づかい()を法華経とをぼしめせ」

(檀越某御返事・御書1220㌻)

(さと)されています。このように常識をもち、社会人としての(つと)めに(はげ)むことが信仰者(しんこうしゃ)の道であると教えています。

日蓮大聖人の願いとするところは、正しい仏法によって個人も社会もともに健全に発展し幸福境涯を築くことであり、日蓮正宗を信仰する者は邪法に迷う人々を目覚(めざ)めさせるために正邪を説き、(みずか)らの姿をもって信仰の尊さを示しているのです。

しかも正法を信ずるならば仏力(ぶつりき)法力(ほうりき)によって、おのずと円満な人格と福徳(ふくとく)(そな)わり、社会人としても多くの人々の信頼と尊敬を受けていることはまぎれもない事実なのです。

もしあなたが、信仰者の真剣な礼拝(らいはい)唱題の姿をとらえて、それを狂信だ盲信だと非難(ひなん)するならばそれは妄断(もうだん)であり、(あやま)りです。なぜならばそれはあたかも、職人(しょくにん)一心不乱(いっしんふらん)に仕事に打ち込み、運動会で子供が一所懸命(いっしょけんめい)に走っているところだけをとらえて、「気違いだ」「狂っている」と、はやしたてているようなものだからです。

12 現在げんざいは信仰するほどの悩みはない、いまの生活で満足だ

「信仰するほどの(なや)みはない」という言葉は、言い()えると「悩みのない人は信仰の必要がない」ということであり、信仰を正しく理解していないようです。

仏様がこの世に出られた目的は、仏知見(ぶっちけん)すなわちいかなるものにも(こわ)れることのない清浄(せいじょう)自在(じざい)の境地と、深く正しい智慧(ちえ)を、衆生に対して開き示し、(さと)()らしめるためであると法華経に説かれています。

そして法華経宝塔品(ほうとうほん)には、

()(きょう)()(たも)たんは()(しん)仏子(ぶっし)淳善(じゅんぜん)()(じゅう)するなり」

(開結355㌻)

と説かれ、正しい仏法に帰依(きえ)する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏(あんのん)(きょう)()に住することができると教えています。

日蓮大聖人も、

「法華経は現世(げんぜ)安隠(あんのん)()(しょう)善処(ぜんしょ)の御経なり」

(弥源太殿御返事・御書723㌻)

(おお)せられているように、安穏な境地とは現在ばかりでなく、未来にわたるものでなければなりません。楽しいはずの家族旅行が一瞬にして悲惨(ひさん)な事故にあったり、順調(じゅんちょう)に出世コースを歩んできた人が一時の(まよ)いから人生の破滅(はめつ)(まね)いたりすることはしばしば耳にすることです。いまが幸せだからそれでよいという人は、よほど自分だけの世界に()(こも)っているか、直面している問題や障壁(しょうへき)認識(にんしき)できない人といわざるをえません。

私たちの周囲を見ても、世界では毎年(まいとし)何百万人もの戦争による()(しょう)(しゃ)が出ており、私たちが戦乱の()(ちゅう)に巻き込まれないという()(しょう)はどこにもありません。また、家族や親戚(しんせき)の悩みはまったくないのでしょうか。子供の教育問題や親または自分の老後の問題などを考えても、「今の生活で満足だ」とのんびりしているわけにはいかないと思います。

大聖人は、

賢人(けんじん)(やす)きに()(あや)ふきを(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを(おも)ふ」

(富木殿御書・御書1168㌻)

(おお)せられ、賢人は安穏な時でも常に危険に心を(くだ)いているが、考えが浅くへつらうことばかり考えている人は、危険な状態になっても安逸(あんいつ)をむさぼろうとするだけであると説かれています。

今が幸せだということは、(たと)えていえば平坦(へいたん)舗装(ほそう)道路をなんの苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には(けわ)しい登り坂もあれば泥沼(どろぬま)の道もあります。その時にはより強い体力と精神力、そして適正(てきせい)智慧(ちえ)がなければなりません。難所(なんしょ)にきてから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。どんな険難(けんなん)(あく)()遭遇(そうぐう)しても、それを楽しみながら悠々(ゆうゆう)と乗り越えてゆく力を持つ人こそ真に幸せな人というべきでしょう。

強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏法に帰依して信心修行を()まなければ決して開発されるものではありません。

どうか目先の世界や自己満足に()じこもることなく、一日も早く正しい仏法を信じ、真に(かしこ)い人間となり、幸福な人生を築いて下さい。

13 利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない

人間の幸福と不幸を、線を引いて区分(くぶん)することはできません。まったく同じ条件のなかにあって、ある人は自分は不幸だと思う人もいれば、別な人は自分は幸福だと思う場合もあります。ひとつの結果を利益とみるか、罰とみるかはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。

心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火もまた(すず)し」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念(むねん)無想(むそう)の境地)できるか、どの程度の火熱(かねつ)を涼しく感ずるかという限界点は個人差がありましょう。しかし普通の人で、真っ赤に焼けた鉄にふれても何も感じない人はいません。また食事をとらないで一日二日は我慢(がまん)できても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。どんな人でも体に激痛(げきつう)を感ずれば心も落着(おちつ)かなくなるのは当然です。

これらの事実から見ても、現実の結果や物事(ものごと)(ひょう)()は人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかるでしょう。

これらの原理を仏法では「色心(しきしん)不二(ふに)」といって物質や肉体(色)と精神(心)はたがいに(はな)れることなく一体であると説いています。

この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教です。

日蓮大聖人の教えによりますと、妙法を信受(しんじゅ)する者について、

「身は(これ)安全にして、心は是禅定(ぜんじょう)ならん」

(立正安国論・御書250㌻)

(おお)せられ、心に禅定を()るばかりでなく、身体も安穏(あんのん)になると説かれています。

また、正法に(そむ)く者について、経文を引用して、

(ひと)仏教を(やぶ)らば(また)(こう)()無く、六親(ろくしん)不和(ふわ)にして天神も(たす)けず、疾疫(しつえき)(あっ)()(ひび)()たりて侵害(しんがい)し、(さい)()(しゅ)()し、(れん)()縦横(じゅうおう)し、死して地獄(じごく)餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)に入らん。若し()でて人と()らば(ひょう)()果報(かほう)ならん」

(立正安国論・御書249㌻)

と説かれています。この文の意味は、

〝正法を信ぜず、信仰を(やぶ)る者は福徳(ふくとく)()きて、孝養心のある子供に(めぐ)まれず、親子・兄弟・親戚(しんせき)が仲たがいをしていがみあう。天候不順で作物(さくもつ)が実らず、悪病が流行し、悪い思想もはやって生活をおびやかす。奇怪(きかい)な事件やわざわいが次々に起こり、死後は苦しみの地獄、飢渇(けかち)の餓鬼、互いに殺し合う畜生などの世界に落ちる。その(のち)もし人間に再び生まれてくるならば兵隊として戦場にかり出されたり、奴隷(どれい)となって酷使(こくし)されるであろう〟

というのです。

これらの教えは因果(いんが)の道理、すなわち善因(ぜんいん)を積めば善果(ぜんか)()悪因(あくいん)には悪果(あっか)を生じるという当然の姿を(しる)したものであり、正法を信受する者には大利益(だいりやく)が、不信(ふしん)毀謗(きぼう)の者には厳然(げんぜん)とした(ばち)が、身心両面に現れることを説いているのです。

真実の幸福と安穏な境涯は、凡俗(ぼんぞく)の私たちが心でどのように受けとめるか、あるいは一時的な感情でどのように考えるか、というところにあるのではなく、正しい仏法をいかに余念(よねん)なく信受(しんじゅ)し、行じうるかにかかっていることを知るべきでしょう。

14 信仰をしなくても立派な人がいるではないか

まず「立派(りっぱ)な人」とはどういう人を()すのでしょうか。

一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉(めいよ)のある人、(ざい)をなした人、学識(がくしき)豊かな人、福祉(ふくし)活動や救済事業に貢献(こうけん)する人、社会的な悪と(たたか)う人などが挙げられます。

さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら(すご)している人々も〝立派な人〟といえるのではないでしょうか。

こうしてみると、〝立派な人〟といっても一定の()(じゅん)があるわけではなく、他人を(ひょう)()する時に主観的見地(けんち)から用いる漠然(ばくぜん)とした言葉にすぎないことがおわかりでしょう。

では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。

結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高(きゅう)(きょく)境涯(きょうがい)到達(とうたつ)することを大目的として修行精進(しょうじん)することであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨(れんま)し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと〝立派な人間〟が(つち)かわれていくのです。日蓮大聖人は、

「されば(たも)たるゝ法だに第一ならば、持つ人(したが)って第一なるべし」

(持妙法華問答抄・御書298㌻)

(おお)せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。

ですから正しい信仰を()たずに、(たん)眼前(がんぜん)の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意(ぎょい)(かな)う人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。

大聖人は、賢人(けんじん)について、

「賢人は八風(はっぷう)と申して八つのかぜ(風邪)にをかされぬを賢人と申すなり。(うるおい)(おとろえ)(やぶれ)(ほまれ)(たたえ)(そしり)(くるしみ)(たのしみ)なり」

(四条金吾殿御返事・御書1117㌻)

(おお)せです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽(えつらく)(楽)などによって喜んだり、落胆(らくたん)したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に(おか)されない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰を(たい)して仏道精進を(こころざ)す以外にないと示唆(しさ)されています。

この八風に(おか)されない賢人こそ〝立派な人〟というべきではないでしょうか。そのためには生命の奥底(おうてい)から浄化し活力を与える正しい仏法をもつべきなのです。

大聖人は、

「地獄に()ちて(ほのお)にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を(さしお)いて三宝(さんぼう)を供養し、()()()(だい)たす()からんと願へども、たまたま人間に来たる時は、(みょう)(もん)(みょう)()の風はげしく、仏道修行の(ともしび)は消えやすし」

(新池御書・御書1457㌻)

(いまし)められています。

15 信仰はなぜ必要なのか

一般に信仰とは、お年寄りが一種の精神修養や先祖を(うやま)いつつ、なごやかな楽しみの場を持つために、お寺へ参詣(さんけい)し、時には団体旅行をすることぐらいの認識(にんしき)しか持ち合わせていない人が多いようです。

あるいはまた(こま)った時に、神仏の加護(かご)を求めて参詣し、手を合わせ、(がん)をかけ、(まも)(ふだ)などを大事にすることが、信仰だと思っている人もあります。

しかし、正しい宗教を信仰する目的は、一人ひとりの人間の生命の救済、つまり、(しょう)(ろう)(びょう)()四苦(しく)や、経済的な苦しみや対人(たいじん)関係の悩みなどを(ふく)む、人のいかなる苦悩にも打ち勝つ活力を与え、すべての人々に真実の幸福を築かせ、尊い人生を(まっと)うするための生き方を教えるところにあります。

したがって、正しい宗教の持つ働きは、(たん)なる精神修養(しゅうよう)や気安めではないのです。

正しい信仰は、何よりも人間の全生命の問題と、その生き方、人の幸・不幸にかかわる、実に重大な意義と働きと大きな価値(かち)を持っているのだということを知ってください。

(かず)ある宗教の中にあって、一時の気安めや現実からの逃避(とうひ)ではなく、真に一切(いっさい)の人間の苦悩を喜びに変え、大難を乗り越えて、煩悩(ぼんのう)菩提(ぼだい)へ、(しょう)()涅槃(ねはん)へ、裟婆(しゃば)忍土(にんど)寂光(じゃっこう)楽土(らくど)へと転換(てんかん)させうる仏法こそ、日蓮大聖人の教えなのです。

では、正しい信仰に、どのような功徳がそなわるかといいますと、

  1. 世界中の一切の人々を、真に幸せな即身成仏の境界(きょうがい)(みちび)くことができる。
  2. 強盛(ごじょう)な信仰を通して、御本尊に(たく)する願いや希望を成就(じょうじゅ)し、また、悩みや苦しみに打ち勝つ金剛心(こんごうしん)を育てることができる。
  3. 御本尊にそなわる題目の功徳によって、父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、また、未来の子孫(しそん)をも救済する福徳(ふくとく)()ることができる。

などがあり、そのほかにも正しい信仰の功徳は(かず)多くあります。

日蓮大聖人は、妙法を信受する功徳について、

「南無妙法蓮華経とだにも唱へ(たてまつ)らば(めっ)せぬ(つみ)や有るべき、来たらぬ(さいわい)や有るべき。真実なり甚深(じんじん)なり、(これ)信受(しんじゅ)すべし」

(聖愚問答抄・御書406㌻)

と教えられています。