1 (れい)をどのように考えるか

霊というと、すぐ幽霊(ゆうれい)とか悪霊(あくりょう)などを想像し、霊媒(れいばい)心霊(しんれい)(じゅつ)などが頭に浮かんできますが、はたして霊は存在するのか、また死後の生命はいったいどうなるのか、私たちには(きょう)()のあるところです。

人が死んだら肉体は(ほろ)びるが、目に見えない霊魂(れいこん)が肉体を()け出してどこかに存在するといった考え方から、幽霊やたたりなどが(きょう)()の対象となり、一方では霊が神聖(しんせい)()され、信仰の対象とされてきました。

しかし生命というはかり知れない不可思議(ふかしぎ)な現象は、仏法で説くところの三世(さんぜ)にわたる永遠の生命観によってのみ、真に生命の実体(じったい)を説き明かすことができるのであり、これをたんに唯心論(ゆいしんろん)唯物論(ゆいぶつろん)()けたり、個体的存在としての霊魂説に(もと)づいた考えでは、とうていその本質を正しくとらえることはできません。

仏教では三身(さんじん)常住(じょうじゅう)ということを説きます。三身とは法報応(ほっぽうおう)の三身のことで、これを仏についていえば、法身(ほっしん)とは法界(ほうかい)の真理の法そのものであり、報身(ほうしん)とは因行(いんぎょう)を修して仏果(ぶっか)()たところの智慧であり、応身(おうじん)とは衆生の機に応じて出現する身をいいます。たとえ仏が入滅しても、真理の法や仏の智慧は当然のこと、衆生(しゅじょう)を救うという応身としての力用(りきゆう)(はたらき)は常に存在しているのです。これと同様(どうよう)に私たちの生命も境遇(きょうぐう)の差はあっても、三身を(そな)えており永遠に存在するものなのです。

すなわち私たちの死後の生命は大宇宙(だいうちゅう)の生命とともに存在し、(えん)によってこの世に生じます。そしてその肉体は、過去世(かこせ)業因(ごういん)をもとに、宇宙の物質をもって形成(けいせい)されています。一生が終り、死に至ったとき、その肉体は分解(ぶんかい)され、またもとの宇宙の物質へともどります。生命もまた大宇宙の生命と渾然一体(こんぜんいったい)となり、永遠に生死を繰り返すのです。

死後の生命についていえば、大宇宙の生命に冥伏(みょうぶく)した死後の生命は、過去世の業因によって十界(じっかい)のそれぞれの(ごう)を感じ、苦楽を()ていますが、とくにその苦しみや強い怨念(おんねん)、または過去の執着(しゅうちゃく)などは生きている人間に感応(かんのう)し、人によってまれには言葉が聞こえたり、物が見えるといった種々の作用を感ずるのです。普通はこれを霊魂のはたらきと考えているようですが、どこまでも感応によるものなのです。

この感応は、死後の生命だけでなく、生きている人からも故人(こじん)に影響を与えます。そこで各寺院における塔婆(とうば)供養(くよう)などの追善(ついぜん)供養が行われるわけです。遺族(いぞく)の強い信心と()本尊(ほんぞん)功力(くりき)によって、亡くなった人の生命を成仏(じょうぶつ)させることが追善供養の真の意義であり、それは感応(かんのう)(みょう)の原理によるのです。

以上説明してきたことからも、通常(つうじょう)いわれるような特別な霊魂や個体としての幽霊などは実際には存在しません。生といい死といっても一つの生命における変化にすぎないのです。

なお、正宗寺院の追善供養で、「(だれ)それの霊」として回向(えこう)を行いますが、この場合の霊も死者の霊魂(れいこん)をいうのではなく、死後の生命全体を指しているのです。その他、日蓮大聖人の御書中にも幽霊(ゆうれい)とか悪霊(あくりょう)という言葉が使われていますが、これらは死者の生命を指しての言葉であり、また大聖人の心、生命を指して魂といわれている箇所(かしょ)もあります。

今日(こんにち)、私たちにとって、なによりも大切なことは、正法を信仰し善因(ぜんいん)を積みかさねていくことです。これこそ永遠の幸福を(きず)く最高の方法なのです。

2 悪霊(あくりょう)のたたりはあるのか

私たちの生命は永遠であり、生といい死といっても、それは同じ()(ちゅう)法界(ほうかい)の生命体の中にあって、一個の生命体として生ずる時と、死して法界に冥伏(みょうぶく)するときの(ちが)いがあるにすぎません。

かつて、人々は不幸や災害(さいがい)があると、それが特別な霊魂(れいこん)(悪霊)によってもたらされたものと信じ、悪霊を(おそ)れるあまり、これを神としてまつり、そのたたりを(しず)めようと考えました。

しかし仏法では因果律(いんがりつ)根底(こんてい)となって一切の人々の救済(きゅうさい)が説かれております。すなわち、過去の行為(こうい)が因となって(むく)い(結果)をもたらすのです。悪い因を作れば必ず悪い果報(かほう)があり、善因(ぜんいん)には善果(ぜんか)があるのですが、つい自分の過去の因を知らずに悪い結果を見ると、それをたたりと考えてしまうのです。

たしかに、死後の生命の状態(じょうたい)が、ときには生きている人に感応(かんのう)することもあり、また故人(こじん)の受けた十界(じっかい)業果(ごうか)遺族(いぞく)などになんらかの影響を(およ)ぼすこともありますが、それはあくまでも因果(いんが)応報(おうほう)によるもので、たたりや(のろ)いとはまったく違うものであることを知るべきです。

その他にも、私たちの意識ではとうてい説明のできない不思議(ふしぎ)現象(げんしょう)はたくさんあると思いますが、それらのすべてを(きわ)めることは凡夫(ぼんぷ)の私たちにはとうてい不可能なことです。

ですからこれらのものをむやみに恐れることはあやまりであり、これらを悪用(あくよう)する低級な宗教や思想に(まど)わされることは(みずか)らの悪業(あくごう)をつくることになるのです。

私たちは、宇宙法界を貫く成仏(じょうぶつ)の一法である大御本尊を信仰することによってのみ、自分自身はもとより、故人の苦しみを消滅し、共々(ともども)に永遠の幸福を築きあげることができるのです。

3 霊媒(れいばい)(たよ)ってよいのか

霊媒(れいばい)は人間と死者の霊を媒介(ばいかい)する者で、わが国では青森県恐山(おそれざん)の〝いたこ〟が有名です。

この〝いたこ〟は依頼者(いらいしゃ)の求めに応じて神がかりとなり、口寄(くちよ)せによって死者の思いを伝えたり、その心をなぐさめる役割(やくわり)をしているのですが、最愛(さいあい)の人を失った遺族(いぞく)にとって、故人(こじん)が今なにを考え、どういう状態(じょうたい)であるかを知りたいと思うのは、人情として無理(むり)からぬことといえるでしょう。

文明の発達した今日、なお霊媒が存在し口寄せなどが続けられている現実は、死者への思いはいつの時代にあっても変わらないというあかしでもあろうと思われます。

たしかに、故人の声をもう一度聞くことができれば、遺族の気持ちは休まるかも知れませんが、死者の気持ちを知ったところで、その深い苦悩(くのう)を消し去ることも、悲しみに打ちひしがれた心を真になぐさめることもできないのです。

それはあたかも、釈尊(しゃくそん)の弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)が、小乗(しょうじょう)の悟りによって()神通力(じんづうりき)で、餓鬼(がき)(どう)におちて苦しむ母親を救おうとしても救うことができなかった故事(こじ)と同じです。

結局、目連尊者は法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて母親を成仏に(みちび)くことができたといわれています。

仏教には感応道交(かんのうどうこう)の原理が説かれており、仏と衆生(しゅじょう)との間に()(つう)じて感じ応ずる働きがあるといわれます。これを悪用(あくよう)したのが霊媒信仰なのですが、仏の教えを除外(じょがい)して(たん)に迷いの衆生と死者が感応したからといって真の救いになるわけではありませんし、かえって共に苦しむ結果になるのです。

ましてや現在の霊媒や〝いたこ〟と(しょう)する者のほとんどは、それを商売の手段(しゅだん)としているだけで、死者と感応する力はないのです。

いずれにせよこのような霊媒は、仏法本来の目的から逸脱(いつだつ)した邪道(じゃどう)なのですから、(たよ)ってはいけません。

4 超能力(ちょうのうりょく)を信ずることは宗教なのか

一般的に超能力とは、普通の人間の五官(ごかん)ではなしえない力を()していいますが、本来十界(じっかい)の生命を(そな)えている人間が、周囲の(えん)修練(しゅうれん)によって、特別な能力を持ったとしても少しも不思議(ふしぎ)ではありません。

仏教では、これら超能力のことを「神通力(じんづうりき)」あるいは(たん)に「通力」と呼び、これを五通(ごつう)六通(ろくつう)()けて説明しています。

五通とは、

  1. 自在じざい移動いどうできる力。
  2. 透視とうしする力。
  3. 普通の人の聞こえない音を聞く力。
  4. 他人の考えを知る力。
  5. 自他の過去世かこせすがたを知る力

をいい、

六通とはこれに煩悩(ぼんのう)を取り去る力を(くわ)えたものを指します。

こうしてみると現代の超能力者の中には、仏教でいう五通の一分(いちぶん)を持った者もいるということができましょう。

この通力については、御書にもたびたび出ており、中でも古代インドの外道(げどう)で、十二年間恒河(ごうが)の水を耳の中にとどめたという阿伽陀(あかだ)仙人(せんにん)や、一日の中に四海の水を飲みほすという耆兎(ぎと)仙人(せんにん)などが知られていますが、これら外道の仙術(せんじゅつ)は深く宗教と結びつき、幻術(げんじゅつ)といって催眠(さいみん)(じゅつ)を用いて人々の目を眩惑(げんわく)させるものでありました。

現実に通力や超能力をもっている人はいるかもしれませんが、その能力の存在そのものは別に宗教ではありません。しかし、超能力を売り物にした行者とか祈祷師(きとうし)などの教えを信じて、その通力に頼っておうかがいをたてたり、悩みを解決しようとする行為(こうい)(あやま)った信仰になるのです。

日蓮大聖人は、

利根(りこん)通力(つうりき)とにはよるべからず」

(唱法華題目抄・御書233㌻)

(おお)せになっています。利根とは、鋭利(えいり)五根(ごこん)眼根(げんこん)耳根(にこん)鼻根(びこん)舌根(ぜっこん)身根(しんこん))をそなえることであり、ふつうでは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。

通力とは前にのべた五通、六通の特殊(とくしゅ)な力をいいます。大聖人はこれらの利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見(うしな)わせ、成仏(じょうぶつ)への障害(しょうがい)となるために、これらに頼ることを(きび)しく(きん)じられているのです。

ただし、こうした一般の超能力とは違った真の通力について、『法華経寿量品(じゅりょうほん)第十六』には、「如来秘密神通之力(にょらいひみつじんづうしりき)」と説かれております。この神通力とは、悪業(あくごう)深重(じんじゅう)衆生(しゅじょう)をも必ず成仏(じょうぶつ)せしめるという、仏のみが持つところの究極(きゅうきょく)功徳力(くどくりき)をいいます。

大聖人は、

「成仏するより(ほか)の神通と秘密とは(これ)無きなり」

(御義口伝・御書1766㌻)

(おお)せです。

末法においては、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と一心(いっしん)に唱えることにより、即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)()げられるのであり、これこそ真実の如来の秘密・神通の力なのです。

5 念力(ねんりき)とはなにか

「念力(いわ)(とお)す」ということわざがありますが、一般には念力といえば、心をひとつにして願うことによって、他者(たしゃ)に対して特別な力を発揮(はっき)することを指しています。

ひところいかがわしい念写(ねんしゃ)やスプーン()げが話題になりましたが、心という精神作用がそのまま物質に影響(えいきょう)を与える現象は、現代の物質偏重(へんちょう)主義の一部の人々に少なからずショックを与えたのかも知れません。しかし念力自体は心のはたらきですから普通の人間でも多少はもっているものですが、だからといって実際に現象を起こせる人がこの世にどれほどいるかといえば、はなはだ疑問(ぎもん)です。

こうした超能力ともいうべき念力を用いた(はなし)は古くからあり、たとえば山岳(さんがく)宗教の修験者(しゅげんじゃ)が念力によって何百メートルも(はな)れたローソクの火を消したりして、あたかも霊験(れいげん)あらたかのように人々を思い()ませる手段(しゅだん)としたこともありました。しかしよく考えてみると、このような特殊(とくしゅ)な、しかも見せ物まがいの念力が、私たちの生活や人生によい影響を与えることはなく、むしろ何ら必要としないものです。

では仏教では念力についてどのように説いているでしょうか。維摩経(ゆいまきょう)などには成仏(じょうぶつ)目指(めざ)す修行の障害(しょうがい)対治(たいじ)する力として五力が説かれています。五力とは信力(しんりき)精進力(しょうじんりき)念力(ねんりき)定力(じょうりき)慧力(えりき)をいい、この中の念力とは憶念(おくねん)の力ということです。簡単(かんたん)にいえば、仏の教えや本尊・修行などをしっかり心に記憶(きおく)して忘れない働きです。

また仏典には、「若し念力堅強(けんきょう)なれば五欲(ごよく)賊中(ぞくちゅう)()ると(いえど)(がい)せられるところなし」(()教経(きょうぎょう))とあり、仏法僧(ぶっぽうそう)を念ずる力によって、いかなる魔縁(まえん)にあっても紛動(ふんどう)されることなく、仏道を成ずることができると説かれているのです。

正しい仏法によって真の幸福を目指す私たちは、迷いの人間による表面的な念力などに(まど)わされることなく、御本仏日蓮大聖人の教えを心にしっかり(たも)ち、御本尊に日々唱題することが真実の念力であることを知るべきです。

6 人相(にんそう)手相(てそう)などはどのように考えるべきか

人相(にんそう)(じゅつ)手相(てそう)(じゅつ)は今から数千年前に、古代インドに発祥(はっしょう)したといわれています。

私たちの目に写る姿(すがた)(かたち)特徴(とくちょう)から過去のできごとや、将来の吉凶(きっきょう)判断(はんだん)するのが人相・手相などの観相(かんそう)(じゅつ)です。

私たち人間の生命は、色心(しきしん)不二(ふに)といって肉体と精神が一体のものですから、心に大きな悩みや心配ごとがあれば、具体的に色法(しきほう)として(すがた)にあらわれます。また内蔵(ないぞう)などに疾患(しっかん)があればもちろんその特徴(とくちょう)が出てきますし、本人の生活信条や性格なども、長い間には姿、形にあらわれてくるものです。

したがって、表面の人相や手相からその人の性格や健康状態を推測(すいそく)することは、それほどむずかしいことではありません。さらにそれをもとにして将来の予想(よそう)もある程度(ていど)できるかもしれません。

そのほかにも、過去のできごとなど、およそのことを言い()てる(うらな)()もおりますが、だからといって将来をまちがいなく見ることができるとは限りません。

わらにもすがる気持ちで占い師に見てもらう人にとっては、過去が()たったということですっかり信じ込み、未来の予言(よげん)をうのみにしてしまうのでしょうが、これは、(じつ)にあさはかなことなのです。

日蓮大聖人が、心地観経を引いて、「過去の(いん)を知らんと(ほっ)せば、()の現在の()を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(開目抄・御書571㌻等)と(しる)されているように、現在はまさしく過去の結果であり、未来は現在の果報が(あら)われるのです。したがって自分の未来を占い師などに()(たず)ねて一喜(いっき)一憂(いちゆう)するよりも、現在の自分が将来の幸福のために正しい因行(いんぎょう)()んでいるかどうかを考えることがもっとも大切なのです。

7 家相(かそう)墓相(ぼそう)について知りたい

ここでいう家相・墓相は家や墓の位置(いち)方角(ほうがく)構造(こうぞう)などから、その吉凶(きっきょう)や住む人の幸・不幸を(うらな)うという意味であろうと思いますが、その因果(いんが)関係(かんけい)や科学的根拠(こんきょ)はまったくありません。まして今日のように住宅事情が思うようにならない状況(じょうきょう)()で、台所はどの方角に作ってはいけないとか、トイレはどの位置、玄関は何()きといったところで、それらの条件をすべて()たすことなど不可能(ふかのう)なことです。

たとえば、南側に道路のある土地に、北向きの玄関の家をつくるようにいわれても、とうていできないことです。むしろこのような現状を無視(むし)した考えで家相・墓相をとやかくいうこと自体(じたい)がおかしなことなのです。

たしかに新しい家を()てる場合、その地形(ちけい)方角(ほうがく)通気性(つうきせい)など、それぞれの生活用途(ようと)に応じた構造を考えなくてはなりません。しかしこれは設計(せっけい)(じょう)当然のことであって、あらためて家相をもちだすまでもありません。

世の中には、(うらな)()凶相(きょうそう)と判断する家や墓地を持った人は、大ぜいいると思いますが、その人たちすべてが不幸になったという話はいまだかつて聞いたことはありません。それよりも占いの言葉を信じたために、かえって不安な毎日を送る場合のほうが多いのです。このような迷信(めいしん)は知る必要もなければ気にする必要もないのです。

仏法には「()(しょう)不二(ふに)」ということが説かれています。これは簡単にいうと、正報(しょうほう)(中心)となる人間と、それをとり(かこ)み、正報によって影響される依報(えほう)環境(かんきょう)世界)とが一体だといことです。これは正報たる人間があくまでも中心になるということですから、いかに立派(りっぱ)御殿(ごてん)のような家でも、中に住む人が掃除(そうじ)がきらいならば(よご)れた家になるでしょうし、方角が悪いといわれる家でも福徳のある人が住むならば家も安泰(あんたい)となり、正法を(たも)つ人が住む家ならば信心によって常寂光土(じょうじゃっこうど)の家ともなるわけです。

これについて日蓮大聖人は、「衆生(しゅじょう)の心けがるれば()もけがれ、心清ければ土も清しとて、(じょう)()と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの(へだ)てなし。(ただ)我等が心の善悪(ぜんなく)によると見えたり」(一生成仏抄・御書46㌻)と(おお)せられています。所詮(しょせん)家や墓などは正報たる私たちの心や人格がそのまま反映(はんえい)する依報の一分(いちぶん)なのです。

私たちが福徳を身に(そな)え、正法をしっかり護持(ごじ)し、精進(しょうじん)するとき、はじめて依正ともに成仏の境界(きょうがい)に至るのです。

8 大安(たいあん)仏滅(ぶつめつ)友引(ともびき)などの吉凶(きっきょう)は現実にあるのか

カレンダーの日付(ひづ)けの(らん)のところに、大安とか仏滅とかの文字をよく見かけますが、これについてはっきりとした認識(にんしき)をもっている人はきわめてまれでしょう。

これは六(よう)といって、先勝(せんしょう)友引(ともびき)先負(せんぷ)・仏滅・大安・赤口(しゃっく)からなる一種の(うらな)いです。

もともと中国で時刻の吉凶占いとして使われていたものが、室町時代の末期(まっき)、日本に伝えられ、その後次第(しだい)に手を加えられて、江戸時代中期に現在の形になりました。

それ以来、広く社会に定着し現在では種々の行事を決めるうえで(もち)いられることが多いようです。

たとえば、葬式を友引に(おこな)うことは友を引くからといってこれをきらい、婚礼(こんれい)などの祝いごとは仏滅をさけて大安を選ぶというのが一般化された考えとなっています。

しかし友引は本来、先勝と先負の間にあって「相打(あいう)ちともに引きて勝負なし」のよくも悪くもない日の意であって、今日的な意味()いはまったくなく、(たん)なる語呂(ごろ)()わせにしかすぎませんし、仏滅も物滅(ぶつめつ)からきており、仏教とはなんの関係もないのです。

六曜の決め方は、旧暦(きゅうれき)の日付けを機械的に()()っただけのきわめて単純(たんじゅん)なもので、旧暦の一月一日を、先勝、二月一日を友引、三月一日を先負というように、毎月一日(ついたち)を六曜順にあらかじめ配当(はいとう)し、二日(ふつか)からは順送りとして月が終わればそこで切り捨てるという方法なのです。

したがって、旧暦では日付と六曜が毎年同じでしたが、新暦(しんれき)になってからは、新旧のズレによって変化が生じ、人々の(きょう)()を引くようになったと思われます。

このように六曜は、旧暦の日付にただ(じゅん)()割り付けしただけのものですから、これを根拠(こんきょ)にして日々に吉凶を()けて占うことはまったくナンセンスなことです。

9 姓名判断(せいめいはんだん)をどう考えたらよいのか

とかく(うらな)いというものは、当たった部分だけが()(ちょう)され、はずれた場合はあまりこだわらない傾向(けいこう)が強いようです。

なかでも姓名判断はよく当たるという人もいますが、はたしてどうでしょうか。

いくつかあげられた占いのうちひとつでも該当(がいとう)すれば、当たったように錯覚(さっかく)しがちですが、(うら)(かえ)せばそれ以外は(みな)はずれているということになります。

ある姓名判断の本には、「漢字そのものには命が()められてあって、人の運命をも作り上げる。そしてその運命は名前がつけられたときからスターとしていく」といっています。

しかし、人の運命が名前をつけられたときにスタートするというのでしたら、名前がつけられる前に死んでしまう子供や、生まれながらにしてすでに不幸な境遇(きょうぐう)のもとに産まれた子供はどのように解釈(かいしゃく)したらよいのでしょうか。

また名前によって運命が決定されるならば、同姓同名(どうせいどうめい)一人(ひとり)が総理大臣になれば、その他の人も同じ地位につくはずですし、反対に一人が不幸な人生を送れば、同姓同名の人も同じようでなければならないはずです。

これについて、さきの本には、「成功、不成功のちがいは、職業の選択(せんたく)や環境(人間関係)によってきまる」と弁明(べんめい)していますが、職業と環境にめぐまれることが成功の条件だというならば至極(しごく)当然(とうぜん)の話にすぎませんし、いまさら姓名判断をまつ必要もないということになります。

これらのことからみても、姓名判断の根拠(こんきょ)が実にあいまいであることがわかると思います。

また姓名判断の方法をみると、画数(かくすう)によって占うのが一般的で、字画(じかく)の数え方も(りゅう)()によってそれぞれ違うといわれています。

たとえば、くさかんむりの字画は、三画、四画、六画など、かぞえ方はまちまちですし、さんずいも、三画、四画というようにさまざまです。そうしますと、同じ人を占うにしても画数が違えば当然(こと)なった判断が出てきますから、これではいったいどちらを信じればよいのか、これほどいいかげんな占いはないということになってしまうのです。

歌手などがデビューする時に、姓名判断の専門家に依頼(いらい)して、よい名前を選んで付けるようですが、毎年多くの新人が出ても、スターになる人はほんのわずかで、ほとんどは消え去ってしまいます。この現実は姓名判断がいかにあてにならないか、という見本であろうと思います。

人間の一生は姓名によってきまるものではありません。まして改名によって幸福を得られるものでもないのです。

私たちの生命は、三世(さんぜ)にわたる因果(いんが)の理法にもとづいているのです。現在の果報(かほう)は過去の因によるものであり、未来の果報は現在の因によってもたらされるのであって、私たちが永遠の幸福を求めるのであれば、その正しい因がなければ絶対にかないません。この正しい因こそ妙法であり、御本尊を信受する以外に真の幸福はありえないということなのです。

10 八卦(はっけ)、星(うらな)いなど多くの占いがあるが、どのように考えたらよいのか

人は(だれ)しも未来を知りたいと願い、幸福を得たいと(のぞ)みますが、そのもっとも手近(てぢか)にある方法が(うらな)いであるといえます。

しかしながら占いで将来を正しく見極(みきわ)め、幸福な家庭を築き上げた人が世の中にどれほどいたでしょうか。

努力なしに望みをかなえようとしたり、実力以上のものを無理に求めようとするところに、悲劇(ひげき)破綻(はたん)が起こるのであって、占いを信じ安易(あんい)に自分の人生を()けてしまうことほど危険(きけん)なことはありません。

初めは遊び程度(ていど)のつもりが次第(しだい)()(ちゅう)になり、ついには占いなしでは身動(みうご)きがとれなくなってしまったという例もあるように、占いを信じたことによってかえって苦悩(くのう)()す結果が多く、むしろ占いには近づかない方が賢明(けんめい)であるとさえいえます。

占いは古くは易学(えきがく)による八卦見(はっけみ)が有名ですが、今日ではその他多くの種類があります。たとえば、現在人気のある星占いは、ロマンチックなイメージからか、とくに若い女性の間ではもてはやされているようですが、その主流であるホロスコープ占星術(せんせいじゅつ)の原点ともいうべき「テトラビブロス」の著者(ちょしゃ)は、「占星術は天文学の応用(おうよう)で、天文学ほど確実性のあるものではけっしてない」とのべています。このように星占いは、学問的に確実性のない占星術を基礎(きそ)としているのですから、きわめて不完全なものなのです。星占いが広まること自体(じたい)現代社会の刹那(せつな)(てき)風潮(ふうちょう)反映(はんえい)しているように思われます。

星占いをはじめとする占いはすべて運命学(うんめいがく)根底(こんてい)となって組み立てられているのですが、基本となる運命学そのものは、学問というにはほど遠く、人間の運命を本人の努力と関係なく、生まれつき(さだ)まったものとみる非合理的な運命論から(はっ)しているのですから、自然科学が発達すればするほど、その欠陥(けっかん)明白(めいはく)になってくるでしょう。

明るい未来や幸福な生活は、正しい信仰を根本に自分自身で築くものであり、それは御本尊を信ずる功徳によってはじめて実現(じつげん)できるのです。

11 守護霊(しゅごれい)守護神(しゅごじん)はいるのか

最近、霊能者(れいのうしゃ)神霊(しんれい)研究家(けんきゅうか)(しょう)する人たちが守護霊などに関する本を書き、そうしたものがベストセラーになったり、マスコミでも取りあげられたりしています。

いま彼らの主張(しゅちょう)によりますと、人間にはどんな人にもその背後(はいご)に、守護霊や背後霊が(そな)わっていて、一人ひとりの人間がどのような人生を生きるかを見守り、霊界(れいかい)から助け指導するのだということです。

そうしてこの守護霊をないがしろにしたり感謝を(おこた)ったり、また先祖の浄霊(じょうれい)をしないから、我が身や家庭に(わざわ)いが起こるのだというのです。

しかし我々凡夫(ぼんぷ)には過去世(かこせ)のことや、未来の出来(でき)(ごと)、また死後の世界のことなどを実体験(じったいけん)を通して明らかにすることはできませんし、また見ることもできません。したがって、ついそうした霊能者の言葉にまどわされてしまう人が多いのです。

けれども霊能者や神霊研究家が、どんなに不思議(ふしぎ)な神霊や霊能の話をしても、それはあくまでも因果(いんが)理法(りほう)無視(むし)した夢想(むそう)想像(そうぞう)産物(さんぶつ)であり、仏法の上からみれば彼らのいうようなその人の運命(うんめい)を支配する守護霊や守護神などというものはまったく存在しないのです。

したがって、実生活における守護の働きについては、委細(いさい)三世(さんぜ)を知る仏の(きょう)()(あお)ぐべきです。

日蓮大聖人の教えは、()(おん)元初(がんじょ)以来(いらい)、末法万年の遠き未来に(およ)三世(さんぜ)一切(いっさい)了達(りょうだつ)された本仏の教えであり、一閻(いちえん)()(だい)第一(だいいち)智者(ちしゃ)指南(しなん)なのです。

その大聖人の教えによりますと、三世(さんぜ)十方(じっぽう)のありとあらゆる仏、一切の諸天善神(しょてんぜんじん)はすべて久遠元初の本仏の垂迹(すいじゃく)であり、従者(じゅうしゃ)であるといわれています。それゆえに、諸天善神は妙法蓮華経の正法を守り、法華経の行者を守護し、正法に帰依する人々の身の上や生活の上に、社会や国土の上に、正法興隆(こうりゅう)のために、善神(ぜんじん)としての働きを()れるのです。

法華経には、

諸天(しょてん)(ちゅう)()に、(つね)(ほう)(ため)(ゆえ)に、(しか)(これ)衛護(えいご)し」

(安楽行品第十四・開結396㌻)

()()(きょう)(たも)たんを(もっ)ての(ゆえ)諸佛(しょぶつ)(みな)歓喜(かんぎ)して()(りょう)神力(じんりき)(げん)じたもう」

(神力品第二十一・開結515㌻)

と説かれています。

私たちはなによりも妙法蓮華経の本門の本尊を信じ、題目を唱え行ずることによって、一切の諸天善神の守護の力をうることができるのです。

と説かれています。

12 水子(みずご)のたたりはあるのか

最近、「水子(みずご)のたたりを(なぐさ)める」ためとして、水子供養(くよう)を売り物にするいわば新種の慰霊(いれい)産業(さんぎょう)が目だつようになりました。全国の至るところの寺院では、水子地蔵(じぞう)や水子観音(かんのん)なるものが建てられ、易者(えきしゃ)霊能者(れいのうしゃ)たちは、水子のさわりやたたりによって現在の不幸や病気などがあるとおどかしています。また新聞の広告には水子除霊(じょれい)(霊を()(のぞ)くこと)のはでな(さそ)いとともに、水子のたたりの例をあげ、いたずらに恐怖心(きょうふしん)をあっおっているのをみかけます。

これらの宣伝(せんでん)によって作られた水子供養ブームは、ことさら迷える人々に対して、家庭内の不幸や、精神的な不安も「水子の霊を供養すればすべてかたづく」という安易(あんい)な思想を()えつけ、増大(ぞうだい)させているように思われます。

水子について考えてみますと、昔、とくに享保(きょうほう)天明(てんめい)天保(てんぽう)などの三大飢饉(ききん)のときには生活防衛(ぼうえい)のためにやむなく「間引(まび)き」という農業用語が転じて用いられたほど、堕胎(だたい)嬰児(えいじ)(ごろ)しが多かったといわれています。

また中には、優生(ゆうせい)保護(ほご)(てき)な意味からやむをえず中絶(ちゅうぜつ)しなければならなかった場合もありましょう。しかし、現在では生活のためというよりもむしろ、性風俗の乱れや道徳心(どうとくしん)欠如(けつじょ)からくる人工中絶による水子が多いようです。このあたりに水子供養ブームの一因(いちいん)があるように思われます。

仏教では人間の生命が胎内(たいない)生育(せいいく)する次第(しだい)五位(ごい)に分けて説いています。

一にカララン()和合(わごう)(やく)され父母の赤白(しゃくびゃく)(たい)が初めて和合(わごう)する(くらい)

二にアブドン位((ほう)と訳され、二七日を()瘡疱(そうほう)の形となる位)

三にヘイシ位(血肉(けつにく)と訳され、三七日を経て血肉を形成する位)

四にケンナラ位(堅肉(けんにく)と訳され、四七日になり肉のかたまる位)

五にバラシャキャ位(形位(けいい)と訳され、五七日を経て六根が(そな)わる位)そして出生(しゅっしょう)()つと説かれています。

この説は受胎後(じゅたいご)胎児(たいじ)(ただ)ちに生命体として生育(せいいく)を始めることを明かしており、現代医学と近似(きんじ)しているものといえましょう。まさしく胎児は人格とまではいえないまでも、生命ある〝ひと〟として生きているのです。

そして、十界(じっかい)互具(ごぐ)一念三千(いちねんさんぜん)の仏法の生命観より見れば、たとえ小さな胎児の生命にも必ず仏性(ぶっしょう)()し、あらゆる可能性を()めているのです。ですから「水子のたたり」があるかといえば、そのようなものはありませんが、堕胎という生命軽視(けいし)行為(こうい)はなんらかの罪障(ざいしょう)を作ることになるでしょう。

そのために大事なことは、何よりも正しい仏法を基調(きちょう)とした生命観の確立と、道徳心の向上(こうじょう)をはかるということであり、もし不幸にして水子があった場合は、正しい因果律(いんがりつ)をふまえた真実の仏法による追善(ついぜん)供養(くよう)と、本人自身の罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)の祈念こそがもっとも肝要(かんよう)なことといえましょう。

13 厄年(やくどし)はあるのか、厄を防ぐには

世間(せけん)では、よく四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄(たいやく)だといって心配している人が大ぜいいます。

しかし、日蓮大聖人は、「三十三のやく()は転じて三十三のさい()はひとならせ給ふべし。七難即滅(しちなんそくめつ)七福即生(しちふくそくしょう)とは(これ)なり。年はわか()うなり、福はかさ()なり候ベし」(四条金吾殿女房御返事・御書757㌻)と妙法の信徒にとって、厄はけっして(おそ)ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを()し、はつらつとして福徳(ふくとく)()むことができるのだということを教えています。

厄という字は、もともとは木の(ふし)のことで、木に節があると製材(せいざい)木工(もっこう)(こま)るところから転じて、(わざわ)いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。

また厄年の年齢区分(くぶん)についていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、昔は人間の一生の()り目にあたる年祝(としいわ)いの行なわれた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種の(やく)()資格(しかく)()、また壮年より老年組に入る節目(ふしめ)のことで、けっして()みきらうことではなかったのです。

また女性の十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節目にあたる時期だったようです。

大聖人は、「やくと申すは(たと)へばさい()にはかど、ます()にはすみ()、人にはつぎふし(関節)(ほう)には四維(よすみ)の如し」(日眼女釈迦仏供養事・御書1352㌻)と、さいころの(かど)(ます)のすみ・人体の関節(かんせつ)・方位の四隅(よすみ)などのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだと(きょう)()されています。

そうした時期に、(たん)なる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合(ごろあ)わせをして思い悩むのはまったく馬鹿(ばか)げたことだといわなくてはなりません。

また、世間の迷妄(めいもう)紛動(ふんどう)されて、(よこしま)な神社や寺で(やく)ばらいなどを(たの)む人は、大聖人が、「(ぜん)を修すると打ち思ひて、(また)そばの人も善と打ち思ひてある(ほど)に、思はざる(ほか)悪道(あくどう)()つる事の()()(そうろう)なり」(題目弥陀名号勝劣事・御書331㌻)と説かれているように、かえってよけいに(わざわ)いや()(きそ)うのです。

大聖人の、「(やく)の年災難(さいなん)(はら)はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事・御書1224㌻)との教えどおり、私たちはこの厄年の節目(ふしめ)の時こそ、邪信・邪説に(まど)わされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心を(ふる)い起こして、七難即滅(しちなんそくめつ)七福即生(しちふくそくしょう)の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。

14 現代の生き仏、生き神と呼ばれる人がいるが、どうとらえるか

現代の新興宗教には、教祖をそのまま神、仏と信じ(あが)める宗教があります。それらの中で主な宗派としては、天理教(てんりきょう)の中山みき、大本教(おおもときょう)出口(でぐち)王仁(おに)三郎(さぶろう)世界(せかい)救世教(きゅうせいきょう)岡田(おかだ)茂吉(もきち)などが()げられます。これらはすでに亡くなっておりますが、現身(げんしん)になんらかの啓示(けいじ)を受けて特別な能力を得たといい、神がかり状態になったといわれます。

現在も数多くの新興宗教や群小(ぐんしょう)教団(きょうだん)の中には、〝生き神さま〟と(しょう)される教祖がいるようです。では、このような生き神、生き仏と称する人は信用できるものなのでしょうか。もしある人が精神異常(いじょう)をきたし、突然(とつぜん)自分は神さまだと言い出したならばどうでしょうか。

これについて二つの点から考える必要があると思います。

その第一は、むかし釈尊(しゃくそん)が出現される以前には、九十五派のバラモンがあり、その中に生き神と同じような教祖も多くおりました。これに対して釈尊は、すべての世界は因果(いんが)原理(げんり)によって構成されており、因果を無視したり、因果を説かない教えは真実のものではない、と破折(はしゃく)されました。

日蓮大聖人も、これら外道(げどう)邪義(じゃぎ)に対して、「実に因果を(わきま)へざる事嬰児(ようじ)のごとし」(開目抄・御書526㌻)と(おお)せられております。

生き仏や生き神と称する人は、いったい如何なる因行(いんぎょう)修行(しゅぎょう)して神や仏になったのでしょうか。(いん)がなく、ただ()のみが突然あらわれる奇跡(きせき)などというものは実際(じっさい)には存在しないのです。

ですから、もしある日突然、神がかりとなったとしても、因行が説明できない神や仏ならば信ずべきものではないのです。

第二の点は、生き仏や生き神といわれるものが、はたして真理に体達(たいだつ)した聖人や、経典によって予証(よしょう)されているかどうかということです。御本仏日蓮大聖人は、末法の法華経の行者として現実の五濁(ごじょく)の世に出現されて、法華経に説かれた予証を体現(たいげん)されたのです。

これについて大聖人は、「此等(これら)の文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語(だいもうご)の人、阿鼻(あび)地獄(じごく)はいかで(のが)れ給ふべき](報恩抄・御書1019㌻)と仰せられています。

経文に予証されていない生き仏や生き神といわれるものは、しょせん信用するにたりないものであり、少しばかり人間ばなれをした能力があったとしても、衆生(しゅじょう)を根本から救うべき正法の導師(どうし)などではないのです。

15 血液型による性格判断などをどう考えるべきか

血液型に(かん)する本を読んでみますと、統計的(とうけいてき)なことを主体(しゅたい)としてのべられていますから(とう)を得ているように思われるところもあります。たとえば血液型には本質的に、それぞれの特徴(とくちょう)があり、その(あらわ)れ方によって長所にもなり短所にもなることを示しています。

その意味からいえば、血液型による判断は迷信(めいしん)とか謗法(ほうぼう)というに()たりませんが、血液型判断をもって人生の根本指針(ししん)を決定したり、他人の性格や長短を頭から()()んだりすることは賢明(けんめい)ではありません。

仏法では人生を、因縁(いんねん)すなわち過去の因と助縁(じょえん)そして未来の果という一連の流れの上でとらえています。

また、人間もそれぞれ因縁をもって生まれてきます。血液型にしても(みずか)らの過去の(ごう)(いん)とし、各々の両親という縁によって決まります。その性格も、血液型だけではなく、育った環境(かんきょう)や教育、その人の生きてきた過程(かてい)などのあらゆる縁によって違ってくるのです。同じ血液型でありながら正反対の性格の人があったりするのはこれらの縁や過去からの業などによるものといえましょう。

また、どのような血液型で生まれてきても、短所を長所に転換(てんかん)し、(ただ)しく向上(こうじょう)するためにもっとも肝要(かんよう)なのは、生命の根源(こんげん)に作用するところの正しい信仰を(たも)つことなのです。

日蓮大聖人は、「只今(ただいま)一念(いちねん)()(みょう)迷心(めいしん)(みが)かざる(かがみ)なり。(これ)を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)明鏡(めいきょう)()るべし。深く信心を()こして、日夜(にちや)朝暮(ちょうぼ)に又(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、(これ)をみがくとは云ふなり](一生成仏抄・御書46㌻)と(おお)せです、私たちがどのような血液型であれ、またどのような血液型の人とめぐりあったとしても、それによって性格や相性(あいしょう)などが決定されるということではなく、正しい仏法によって錬磨(れんま)し、修行(しゅぎょう)していくことが豊かな人間性と正しい人間関係を(きず)く道なのです。

16 (きつね)つきなどのつきものをどう考えるか

今日の医学では(きつね)つきや(へび)つきなどのつきものを、先天的(せんてんてき)()(じょう)性格(せいかく)者や精神(せいしん)薄弱者(はくじゃくしゃ)に多く見られるヒステリー性の一種の精神病と判断しています。

しかし実際にはそうした診断(しんだん)だけで説明のつく現象(げんしょう)ではないようです。

仏法ではあらゆる生命の本質を十界論(じっかいろん)でとらえていますが、狐や蛇などのつきものは、まさに人間の生命の上にあらわれた畜生界の姿にほかなりません。

十界とは地獄(じごく)餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)修羅(しゅら)人間(にんげん)天上(てんじょう)声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)菩薩(ばさつ)(ほとけ)の十種の生命の働きをいい、それらはすべて私たちの生命の奥底(おうてい)冥伏(みょうぶく)しており、日常のさまざまな(えん)にふれてあらわれてくるものなのです。

ですから狐つきなども、その人の心身にそなわっている十界中の畜生界の働きが(よこしま)な信仰などに誘発(ゆうはつ)されて現われてきたものといえます。

このことは、狐つきが代々稲荷(いなり)などの畜類(ちくるい)を本尊とする信仰をしてきた家庭に現われる例が、きわめて多いことからもわかると思います。

つまり信仰の対象とした狐や犬などの畜生界の生命と、私たちの生命に(そな)わっている畜生界が呼応(こおう)して、いわゆる感応道交(かんのうどうこう)してあらわれた姿がつきものなのです。

感応道交とは本来、衆生の機感(きかん)と仏の応赴(おうふ)とが相通(あいつう)じて一道に(まじ)わることをいうのですが、この働きは広く十界のすべてに通ずるのです。

すなわち正しい仏の教えに(したが)って正しい信仰をつらぬけば、仏界と衆生(しゅじょう)の十界が感応道交し、しかも衆生の仏性(ぶっしょう)が開発されて、成仏への道が(ひら)けますが、狐などの畜類(ちくるい)を信仰するならば、その人の心や行動や果報(かほう)が狐などの畜生界の姿となって現われてくるのです。

したがって狐つきなどで悩んでいる人は、正しい御本尊を信じて唱題し、(みずか)らも畜生界などに紛動(ふんどう)されない強い意志を持つことが大切なのです。

また、こうしたつきものを落とすのに、他宗の行者や神主(かんぬし)などが、暗示(あんじ)催眠(さいみん)を利用して祈祷(きとう)をしたり、「松葉いぶし」などといって、家の中で松葉(まつば)()やし、その(けむり)でつきものをいぶり出す呪法(じゅほう)(もち)いるようです。

しかしそんなことをしても、その人の心身にきざまれた邪な信仰の(よご)れを落とすことはできません。

長年(ながねん)稲荷(いなり)などの謗法(ほうぼう)による罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)し、狐つきなどの苦しみから脱却(だっきゃく)する道は、法華経に、「(われ)大乗(だいじょう)(おし)えを(ひら)いて()衆生(しゅじょう)度脱(どだつ)せん」(提婆達多品第十二・開結三六七)と説かれ、日蓮大聖人が、大涅槃経を引かれ「()の正法を(のぞ)いて(さら)救護(くご)すること無し。()(ゆえ)応当(まさ)に正法に還帰(げんき)すべし」(太田入道殿御返事・御書912㌻)と(おお)せのように、仏の正しい教えである妙法蓮華経による以外にはないのです。